気が付いたら、私はしっかり掛け布団を被ってベッドに横になっていた。
開け放たれた窓から大分柔らかくなった日光が差す。もう随分日が昇ったようだ。
暑苦しく思った私は布団を跳ね除け、次いでどこか窮屈な事に気づいた。
あろうことか、私は制服を着たまま眠っていた。パジャマとしてはいささか整い過ぎた採寸のせいで、落ち着かない気分だったのだ。
昨日自ら布団に潜ったという記憶が無かった。胸ポケットに触れたことまでは覚えているのだが、そこから先がすっと抜け落ちている。
名刺の感触を確認したとたん、まるで後ろから目隠しされたかのように視界が閉ざされ、ゆっくりと意識がフェードアウトしていったのだ。
なんだかクロロフォルムを用いた手口のようだが、さらわれている訳でもないし、第一誰かに目や口を塞がれた記憶が無い。
寝ぼけてよく覚えていなかったのかもしれない。それにしても、制服の方は悲惨だった。
ブレザーやスカートの皺や、汗で湿った為の着心地の悪さなど、寝相が悪いうえにこんな時間まで寝ていた自分を恨めしく思う。
時計を見ると十一時を指していた。特に急ぐことも無いが、普段ならとっくに仕度の済んでいる時間である。
起き上がると、何かを下敷きにしていた事に気づいた。紙切れだ。
汗と寝相で揉みくちゃにされたそれは名刺だった。私は慌ててブレザーのポケットに触れる。ボタンは止まっているが、中身は無かった。
寝ぼけていたとはいえ、わざわざボタンの留め外しまでして名刺を置いて寝ることがあるだろうか? そんな馬鹿な。
この名刺はあちこちを旅するのかと思うほど、気を抜くと私の手元から消えてしまう。
チケットは期限が切れたらただの紙切れだ。この名刺は、チャイルドラインの案内のように期限を書いてはいないけど、いつまでも使えるフリーパスでは無いのかもしれない。
家を出る口実は、学校が空いていて、制服を着ていればいくらでも作れる。よっぽど不自然でない限り、わざわざ事実確認をする親なんてこの家にはいない。土曜は図書室が空いている。これでいい。
仕度を整え、皺の目立つのは仕方ないと割り切って、制服姿で家を出た。
駅で電車を待ちながら、手にしっかりと握った名刺を確認する。温屋はここから二駅離れたところの外れにある。
何故二駅も離れた場所の公園で、彼をよく見かけるのか分からない。家がこの辺にあるというだけなのだろうか。
私はいつも乗るのとは逆の、上り列車に乗車した。いつもの景色が逆に流れ出し、あっという間に飲み込まれた。
今進んでいる私たちから、いつも通る灰色の通学路が遠ざかっていく。たった五分ほどの移動が、学校へ背いたような高揚感を生んだ。
私は、あんたたちとは逆の道を行くんだ。
人が多いとは言えない地元とは違い、二つ先の駅は繁華街にある。緩い時間の流れも、穏やかさというより換気の悪さを感じる。
高校も含め、住宅街の周辺しか知らなかった私は辟易した。日曜なのに、目の前の大通りはかなりの人が行き来している。
こんなところの郊外と言ったところで、たかが歩いて十分くらいの距離だ。とてもここと違う場所とは思えない。
ひとまず温屋の外観を見てから判断してからでも遅くない、と考えることにした。チケットはいつ切れるか分からない。
スクランブル状の交差点は見ているだけで気持ち悪い。あちこちを好き勝手に往来する人間を避けるだけで神経を使う。
テレビで見るような「ハメを外した」感じのルックスの若い男、香水のきつい女、少しぶつかっただけで舌打ちする中年の男。
どこかから聞こえる、笑い声。ねえ、何がそんなにおかしいの。
人のルックスを見るダサい私は滑稽? 香水を付けるなんていう色仕掛けもできない私は駄目な女? 男にぶつかられるような所にいる私は――いらない存在?
急に腹の底がもぞもぞ動き出した。笑いたい。声を出して、あのクスクス響く笑い声を笑い飛ばしてやりたい。
でもそんなことはできない。無論、目の前で歩き煙草をしている女を、ボロボロの学生鞄で殴りつける資格も、私には無い。
位置はあっていると思う。だが指定された場所にあるのは、とても店を開いている場所には思えない。
最初は結構な人数が歩いていた歩道も、次第に細くなり、人気が減って、気が付くと住宅街になっていた。
こんな閑静な場所が近くにあることに驚いた。その中に店があるのなら探しやすそうだと思ったが、目的地と思しき場所が想像とは違った。
場所を間違えたのだろうかと周辺を歩いてみたが、どこも人家だ。だが確かにここだと思った場所も、周りとさして変わらなかった。
外観はまるで普通の家だった。ただ周りより若干年季が入っている気がする。
両開きの門が開け放たれているが、佐藤と書かれた表札と、インターホンは塀についている。入っていいものだろうか。
草木が茂っているが華の無い、前庭を眺めて迷っていると、肩を叩かれた。
驚いて振り向いたが、顔が見えない。背が高いのだ。男のようだ。
少し上を仰ぐと相手と目が合った。慌てて私は目を逸らす。だが、いつもは背筋に這い上がる嫌悪感が無い。
「うちに何か用ですか?」
野太い声で男が尋ねた。
「あの、ここって佐藤さんのお宅ですよね?」
「そうですが。表札を見れば分かるでしょう」
訝しげに相手は答えた。もっともである。
「あの、ヌクヤってこの辺でご存じないですか」
言ってから、しまったと思った。ヌクヤとは何だと聞かれたらどうしようか。説明できない。
男からは、返事が無い。
「すみません、あの、場所間違えたみたいなんで」
気まずくなってその場を立ち去ろうとすると、後ろから腕を掴まれた。咄嗟に私はそれを振りほどいた。
「待てよ、嬢さん。人の目くらい見て話せないのか? じゃなきゃ答えられないぞ」
聞き覚えのある台詞に、思わず私は走りかけた足を止めた。
――ええ、お客様が私と目を合わせてくだされば。
悲しげな老人の横顔を思い出す。年月に蝕まれ、その歴史を刻みこんだ疲れた顔。
突然蘇ったヴィジョンに囚われていると、男が口を開いた。
「もしかしてあんた、新しい神様かい? 爺さんがそろそろ来るって言ってたんだ」
呼び止めたと思ったら、どんどん口の聞き方が馴れなれしくなってきた。私は急に腹が立ってきて、男の方を――目ではなく肩を見て、声を荒げた。
「神様って何です? 私は変な宗教に入信しに来たんじゃありません」
言いながら、最後の方は語気が弱まっていった。人を神様呼ばわりするお爺さん。
やっぱりそうか、と相手は納得したようだ。
「爺さんなら今出かけているんだ。うちに上がって待つか?」
もはやすっかり砕けた口調を直そうともせず、男は私に尋ねた。
「俺はちょうどあんたを探しに行って戻ってきたんだが、すれ違ったのかな、とにかく会えてよかった」
低く威厳のある声だが落ち着いて聞いてみると、それは確かに、あの柔らかい声音だった。