鋭利な三日月以外は闇の空。静か過ぎて、空気がしんしんと音を立てているようにも聞こえる。その合間を縫ってじりじりと、蝉が搾り出す夏の断末魔のような声が聞こえる。
 時折吹く風が心地よい、珍しく涼しい夜だ。私は誰のか分からないカーデガンを、寒さ凌ぎで勝手に拝借していた。
 今日は朝から冴えない天気だったが、どうしたわけかこのカーデガンはよく干したように暖かくて軽かった。
 すべきことは全て片付けた、何もない夜だ。優しく押し広げられるカーテンが切なく揺れる。家族はまだ帰ってきていない。
 ふと私は、この静かな空気を全身に浴びたいと思い立った。散歩に出よう。
 突っ掛けを履き、心地よい、柔らかな風のある外に出る。夜光時計に羽虫が集るのを横目に、戸締りを頭の中で確認しながら鍵をした。
 見えぬ手に撫ぜられて、漣のように揺れる草むらには鈴虫を入れたい。
 時々見える蝉の亡骸を、落ち葉と間違えないように跨ぎながら、私は秋の音色が来る時に心を馳せた。
 寄り道はしたくなかった。何度宛てのない散歩に憧れても、結局いつも、目的地は同じだった。
 家々の建ち並ぶ緩くて長い坂を越えると、右手の眼下に土手が見える幅の狭い階段がある。階段を下りて左を真っ直ぐ行けばすぐそこだった。
 そこに足を踏み入れてまもなく、私は気づいた。
 ぎしりぎしりと、音がする。
 その金属音に誘われるように、私は歩を進めた。
 ちらちらと光る街灯から、細かな光の粒子が降り注いでいる。光はブランコを照らし、柔らかな霧のようにそれを包み込んでいた。
 ミルキーウェイ、だと私は思った。
 一つの席が、ゆっくりと狭い振幅で前後している。そこには誰かが乗っているようには見えない。
 近づくにつれ、まるで霧が集結して行くかのように、徐々に人の姿が現れてきた。ブランコが段々速度を落とし、やがて落ち着いた。
 その人は茶色の帽子を軽く持ち上げ、正面を向いたままにこやかに微笑んだ。
「こんばんは、いい夜ですね」
 私は無意識にカーデガンを脱ぎ、彼の元に歩み寄って差し出した。彼は穏やかな目で闇夜に浮かぶ猫を眺めている。
 頭を私のほうに向けかけて、一瞬悲しげに眉を顰めて正面に戻した。 「寒いでしょう、それはあなたに差し上げます」
 彼が一瞬の迷いに囚われているうちに、猫はどこかへ走り去ってしまった。茂みをするりと抜けていく尻尾は、捕まえたいと思う者に、同時にそれは困難だろうと失望させる。
 猫のいなくなった方を見ながら、何も言わずに私はカーデガンを羽織り直した。老人を見遣ると、彼は満足げに微笑んだ。
「私の妻が残していったものです。私が持っていても仕方ありません。もう着る者がいないより、ずっといいでしょう」
 私はカーデガンが彼のものだということに、もはや何の違和感も覚えていなかった。彼に会った時点で、それを不思議に思う方がおかしかったのだ。
 黙って立ち尽くしていると、座るように促された。
 私はなんとなく、軽く一礼してから、彼の席の隣に掛けた。
「あなたは猫が好きですか」
 老人は穏やかに訊ねた。何でもない質問なのに、彼が訊くと何かを見透かされそうで怖い。
「身構えないでください。好奇心です」
 事も無げに彼は私の心中を当てた。態度に表すことを忘れてしまった私から、彼は感情の芯を掬い取る。
「好きといえば好きですし、でも愛想がなさすぎだと思います」
 ああなりたいとは思わないが、ああなれたら楽だろうと何度も思った。
「では、猫の目を見つめることはできますか」
 それはあまりに単純な質問だった。
「見れますよ、それくらい」
「何故です」
「猫だからです」
「何故、猫なら見れるのですか」
「いえ、犬でも鳥でも平気ですよ」
 老人はふっと表情を緩めた。安堵というか、気が抜けたというか。
「質問の仕方が悪かったようです。言い直しましょう。何故、人だと見れないのですか」
 訊かれた途端、私の頭に血が駆け上がった。だがすぐにすっと引いて、まるで達観したような余裕が生まれた。
「それを訊くのは野暮だということを、あなたは知っているはずです」
「あなたならそう答えると思っていました」
 老人は静かに言った。ちらりとその横顔を確かめると、紳士は初見より老け込んで見えた。
「私の妻も同じようなことを言いました。あなたは時々お節介なまでに人に踏み入ろうとする、とね」
 私は初めて彼に出会ったときのことを思い出した。身内の話をした途端、彼の声から温かみが抜けてしまうのだった。冷めたのではない。温かくないだけだ。
 だがどこかに体温を追いやってしまったときの彼の態度は、私を理由もなくそわそわさせた。
「気分を害したなら謝ります。でも私は、その質問に答えるつもりはありません」
「おや、そう見えましたか。それなら謝るべきは私のほうですね。つまらない話をしてしまいました」
 暫くの沈黙があった。私は茂みに、さっきの猫の尻尾を見た気がした。凝視してみたが、過ぎ去った車のライトで一瞬目が眩んだだけだった。 
 街頭から、光はさらさらと流れている。
「さて、そろそろ帰ったほうがよろしいのでは。ご家族が帰ってくるのでは」
「何故そう思うのですか?」
 老人は表情を緩め、確信に満ちた声で言った。
「無論、勘です」
 私は「そうですか」とだけ返し、迷わず彼に別れを告げた。
 自分の部屋に入って間もなく、愉快そうに大声をあげながら姉が傘立てを倒すのが聞こえた。
 私は制服を引っ張り出し、明日は学校がないというのにそれに着替えた。
 胸ポケットを突付くと、確かに固い物がそこにはあった。



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