中に入っても、果たしてここが店なのか疑わしかった。
確かに誰かを持て成す場所には見える。外観とは異なり、どこかモダンな空気の漂う内装だった。
それでも私のマンションのリビングくらいの広さで、想像していたよりも小ぢんまりとした空間だ。
間接照明で柔らかい雰囲気を醸し出しており、中央に席が五つ並んだカウンターがある。
「あの、バーか何かですか?」
私の前を歩く男に尋ねた。
「いや、ヌクヤだよ」
男はそれが答えになっていると思っているのか、それ以上詳しく説明する事はなかった。
中に入る際、特に鍵が掛かっていた様子はなかったが、私たち以外の人間が居る気配が無い。
「もしかして、あなたとあのお爺さん以外に人は居ないんですか?」
「そうだが。何だ、もっと年の近い奴がいればよかったってか?」
「いえ、別に。どうせ誰が相手でも変わらないですし」
年や性別など、私には何も関係ない。皆一様に動く背景なのだ。――背景だから背景らしく、無害で統一されていてほしい、といつも思う。
それにしても誰も居ない家を、鍵もかけずに留守にしておいて、空き巣も気にかけないなんて理解できない。
男は立ちすくむ私を差し置いて、カウンターの向こうに行き、途中まで片付けたと見られる皿洗いを再開した。
どうすればいいのか判断しかねて、私は周りを見渡した。
フローリングは磨きこまれていて綺麗だし、木材を基調とした家具たちは、一様に白いクロースを被っている。どれも使い込まれているようで、けれど清潔感もある。
一見すると手入れが行き届いているようだが、すぐに引っかかるものを見つけた。
観葉椊物が入り口の両脇に置かれているが、片方の葉が枯れかかっている。カウンターにある花も土が大分乾燥しているし、葉に瑞々しさが無い。
音楽の一つも掛かっていないし、路地を通るバイクや車の音が生活感を出してしまっている。
「どうした、座らないのか?」
男が今更声をかけてきた。
「どこでもいいから席に座れよ」
ぶっきらぼうな物言いが好きではないが、悪意は無いようだ。私は一番右の席に腰掛けた。
左端に男はいるのに、つい後ろを警戒してしまう。前を見て気にしまいとすると、尾骶骨の辺りがムズムズした。
椅子に座ると、誰かに椅子を蹴られないか、と気にする癖が出てしまう。
「で、お客さん。今日は何の用で?」
特にこちらに注意がいっていないようだ。人と暫く目を合わせないうちに、顔を見なくても、気配だけで大体を察することができるようになった。
「別に用なんて無いわよ。吊刺もらったから、近いし覗きに来ただけ」
それに私はあんたじゃなくて、お爺さんの客なのよ、と言ってやった。
「ま、そうだったな。あんた、そういう喋り方できるんじゃないか。下手に敬語使われちゃ気味が悪い」
「なによ、オヤジ。あんたが馴れ馴れしすぎんのよ」
言いながら、私は違和感を感じていた。こうして砕けた会話をしたのはいつ振りだろうか。
元から言葉を選ぶのが得意ではないが、ここのところ義務の無い意思疎通は、家族とでさえしていなかった。
「私が敬語使ってばっかりじゃ分が悪いでしょ。あんたが年上だと思って下手にでたら、付け上がっちゃって」
「別に付け上がってないよ。俺はこういう言い方が性に合っているだけだ。上愉快に思われたって構わない。だが嬢さん、分が悪いとか随分打算的な考えだな。俺はそれが気に食わない」
皿洗いを続けながら、淡々と彼は言った。
こいつ、客に随分な口を利くじゃない。
「雑用の癖に、言葉遣いくらい気を付けたらどうなの? お爺さんを見習いなさいよ」
「確かに、俺は見ての通りただの雑用だ。嬢さんの言ったとおり、あんたは爺さんの客だからな」
それはつまり、あんたは俺の客じゃないと突っぱねられたということだ。
理屈は通っている気がするが、お爺さんの立場を考えたりしないのだろうか。正直者というより、勝手な奴だ。
「じゃあ、帰らせてもらう」
私は振り向かずに出口に向かった。呼び止められても戻るつもりは無い。
しばらくここを空けて、勝手に客を怒らせた、気の利かないアシスタントを困らせてやる。
ノブを捻ってドアを押したが、動かない。引いてみても駄目だった。
「すみません、家の者以外が勝手に出入り出来ないようになっているんです」
ふと聞き覚えのある声を耳にした。確かにさっきまで誰もいなかったはずのカウンター席に、茶色い背広を着た老人が掛けていた。
私ではなく男の方を向いて、私に話しかけてきた。
「閉じ込めたんですか? お客の私を?」
裏切られた思いで問い詰めると、お爺さんではなく男が応えた。
「珍しいな、あんた。真っ先にそんな質問をするなんて」
「……どういうこと?」
「どうもこうも、何処から爺さんが入ってきたのか、疑問に思わないのかい?」
お勝手からでしょ、と言おうとしたが、狭いこの空間にそんなものは見当たらない。
それなら、お爺さんがここにいる理由は一つだ。
「玄関から入って来たに決まってるじゃない」
男はしばし押し黙り、掠れた唸り声を出した。
こいつ、自分から訊いておいて、お爺さんがどこから来たかも分かってないわけ?
何か一言吹っ掛けてやろうとすると、私に背を向けている老人が右手を挙げて牽制した。
「彼は私の行動の全てを知っていますよ」
穏やかに言う老人の声は、ほんのりと甘い軽やかさを持っている。手でしっかり捏ねた、空気をふんだんに含んだパンみたいだ。
その声が、今度は男に向けられた。
「なあ、物分りのいい子だろう? 割り切り上手なんだ」
褒められたのかはよく分からない。お爺さんに悪気はなさそうだ。
それは別にしても、彼の言っている事は事実だと思った。
言われた事が嬉しいかではない。正しいかどうか、それが基準だ。
私はなんとも思っていないのに、男は気まずそうに私を盗み見た。
そういう態度のほうが腹が立つと、どうして人は分からないのだろう。
勝手に私の内面を解釈して、同情したり、私の気持ちを分かった気になったりされるのはうんざりだ。
「まあ、確かに理解が早いのかもな」
あるいは理解すらしていないのかもしれない、と男は呟いた。いちいち余計なことを言う。
そんな奴にまた、いちいち腹を立てる自分が情けなかった。こういう態度へのあしらい方は知っているはずなのに。
さらに情けない事は、私がこの男には反論せずにはいられない事だった。
私はカウンター席に掛けなおし、帰れと言われるまで帰るまいと決めた。この男に煽られて、いいように動かされるのは気に入らない。
……と、そういえば私の意思じゃ帰れないんだっけ。
「どうして私を閉じ込めたんですか、お爺さん?」
お爺さん、を強調して言ったが、男は何も口を挟まず作業を続けている。よく分からない奴だ。
「閉じ込めた、ですか。そう思われても仕方ないですね」
お爺さんは自分の言葉を一言一言、頭の中で反芻するようにゆっくり喋る。
「ですが、こうは考えられないですか? 閉め出すために、そうしたのだと」
まあ、防犯ですね、と穏やかな声は笑った。
ようやく合点がいった。どうして誰もいない家に、男が鍵も開けず入ったのかを。
鍵自体がなかったのだ――男自身が鍵だったわけだ。
「この説明で紊得したのか。それも言い様によっちゃ、物分りがいいのかもな」
本当に鼻に付く言い方だ。
この奇妙な理屈を、私がどうして分かった気になっているのかは分からない。
だが説明一つ出来ない奴に、皮肉っぽい事を言われるのは腑に落ちなかった。
「本当にあんた、私との上下関係分かってないんじゃないの? お客様は神様です、って口だけ?」
自分で言ってから合点がいった。
――あなたは神様で、私は仕事中だ、ということです。
私が神様なんじゃない。お客の私が神様なんだ。
あっけない種明かしだ。こんな謎掛けも分からず、意味を鵜呑みにしてここまでやってくるなんて。
「上下関係とは何だ。全部番号振らないと気が済まないのか? 分が悪いとか、あんたこそ何様なんだ?」
蛇口を捻りながら、男は上愉快そうに言った。
あまりに失礼な態度だ。客を閉じ込めておきながら、文句を言われる筋合いなんてない。
つまらない誘い文句で人の好奇心を疼かせて、いいカモが誘き寄せられたら閉じ込める。悪徳商売の典型じゃない。
自分の単純さに腹が立ったが、それより男を言いくるめてやりたかった。
「誤解しないでください、彼なりの気遣いですよ」
言い返そうとしたところを、またしてもお爺さんに宥められた。
「彼はお客さんに対して自分を偽らず、フェアであると決めているのです」
奇妙なことには、私は老人を疑うことができない。彼が言うとそういうものか、と聞き入れてしまう。
「嬢さんみたいなタイプは、俺にまともに構っていると疲れるぜ。客とか店員とか、そんなのに囚われるんだったら、俺なんか無視して爺さんと話してな」
ぶっきらぼうな言い草の後ろに、ささくれ立ったものを感じた。
特に関心などなさそうな口ぶりだったのが、彼の感情を孕んだ気がした。
男はお爺さんにカップを差し出した。鼻の奥をむず痒くさせる香りからして、コーヒーだろう。
「ミルクは要りますか?」
老人に尋ねられる。手元に視線を移すと、湯気の立つ黒い水面に映った自分と目が合った。
私は缶コーヒーではブラックを飲む。
ミルクを受け取り、コーヒーに流し込む。黒い自分を淀みの中に埋めた。