私の名前が下から聞こえた。姉の声だ。私は意識を取り戻した。
 ベッドで寝そべりながら音楽を聴いていて、転寝をしてしまったらしい。
 一通りの音楽を流したスピーカーは沈黙している。柔らかかった西日は色濃い影に塗りつぶされ、窓の外からぼんやりと光る街灯が見える。部屋は暗く、辺りはただ冷ややかだった。
 姉の声より、それに混じっていた金属音が私を起こしたらしい。
 この音を聞いたら、早く降りないと偵察にこられる。ベッドから引きずり出されて起きたのもしばしばだ。
 渋々起き上がると、頭の中心から、いつもより強い重力に引っ張られている感じがする。普通に歩くだけでべたん、べたん、と大げさな音がした。
 階段を降りている途中で、家族がすでに揃っている食卓を想像してしまった。グッと胃袋が喉元まで押し上げられる。
「気持ち悪い。あとで行く」
 鍋蓋と御玉をもって上ってきた姉に言って、急に軽くなった足で部屋へ引き返した。鍵を掛けると、追ってきた足音は遠ざかっていった。
 全身を放り投げてベッドにうつ伏せになったが、目が冴えて寝る気になれない。
 やおら起き上がって、宿題の残りを片付けることにした。鞄から一通りの勉強道具を取り出すと、間から何かがすり抜けて落っこちた。
 名刺ほどの小さな紙だ。私はさっきの老人を思い出した。一陣の風が吹く間に、周りに溶け入るように消えてしまった人を。
 その名刺までもが夢のように消えてしまうのを恐れて、そっと裏返す。
 チャイルドラインの案内だった。先週もらったものだ。いつものように、今回も通話無料期間は一週間で、昨日で最後だった。
 あーあ、結局また見送っちゃった。びりびりに引き裂いてそれをゴミ箱へ放ると、それは呆気なく姿を消した。物語ではなく現実の中で手に入れた、始めからない銀河鉄道のチケットみたいに。
 もしやあの名刺は、本当に消えてしまったのだろうか。公園で出会ったと思っていた銀河鉄道の車掌さんに、実際には会ってなかったんじゃないか。
 鞄を引っくり返したが、それと思しき紙切れは出てこなかった。軽く溜め息をつき、椅子の背にもたれかかる。ふと違和感を背中に覚えて、背もたれを見た。
 背もたれには、見たことのない麻色のカーデガンが掛かっていた。たった今誰かが着ていたかのように、ふわりと温かい。
 私の家族が羽織るには、それは色が控えめすぎた。第一、さっき座ろうとしたときには何もなかったはずだ。じゃあ誰が?
 薄気味悪くなったが、家族に確認しようと思って取り上げた。
 カーデガンのポケットから何かが滑り落ちた。紙切れだ。
 何の気なしに拾い上げて、戻そうとしたとき、それが名刺くらいの大きさだということに気がついた。
 今度はすぐに裏返した。のろのろしていると、それさえも消えてしまいそうだと思ったから。
 案の定、そこには黒いゴシックのフォントで「温屋」と書いてあった。
 よかった。私は手と連動して震える名刺を、何度も読み返した。チケットがあった。私は彼に、会っていた。
 こんどこそ無くすまいと、ブレザーの胸ポケットにそれを仕舞う。普段は使わない、折り返された生地に付いていたボタンを留めた。
 長方形の形に張り出したポケットを見ながら、ぼんやりと、なぜあのカーデガンの中に名刺が仕込まれていたのかを考えていた。
 仕込まれて、という言葉が出てくる時点で、ある程度人物は特定できていた。ただ、この部屋にカーデガンをおいていくのは、現実的に彼では不可能だ。
 そもそも始めから無かったはずのものが突然背もたれに掛かっている辺りから不可解だが、そこは気が付かなかっただけという在り来たりなオチと決めることにした。
 だからこのカーデガンは、彼のものであるはずが無いのだ。
 もしかしたら玄関ででも落っこちていたのを、私のだと思った家族の誰かが、あとで渡そうと忍ばせたのかもしれない。きっとそうだ。そうでなければ困る。
 結局その日は、もう誰も私を呼ばなかったし、部屋にも入ってこなかった。私も家族が寝静まるまで夕食を取らなかった。無論、カーデガンのことは誰にも尋ねていない。



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