玄関には数足の靴があったけれども、普段外出時には履かれないものばかりだった。
 まだ誰も帰っていないらしい、と胸を撫で下ろしたのも束の間、私は、今朝姉が履いていった新しいミュールがそこに脱ぎ捨てられているのに気づいた。
 ただいまもいわずに靴を脱ぎ捨て、私は忍び足で自室に直行した。部屋は整然としていて、ほとんど余計なものは置かれていない。
 私が几帳面というわけではない。
 母さんがすべて片付けているのだ。否応なしに私の所持品は、すべて彼女の価値観で要るものと要らないものとに分別されていた。
 友達から貰った手紙は押入れの手の届かないところに入っているし、遊具も一箇所に詰め込まれたから使う気が失せてしまう。
 子供部屋にしては殺風景な、無味乾燥な空間だったが、それでも家族が集うリビングよりははるかに寛げた。
 磨かれた床に傷をつけないか、白い壁に食べ物の染みはついていないか、常に目を光らせている母さんの監視下で行動するのは苦痛で仕方なかった。
 何もないはずの私の勉強机に、一枚の茶封筒が無造作に置いてあった。
 中を見ると、夏祭りのときの写真が入っていた。
 母さんにしては、娘の机に物を残すのは珍しいことだった。
 写真とて例外ではない。いつも私に目も通させずに、アルバムに収めてしまう。
 「あとで見てちょうだい」
 それが彼女の口癖だったが、自分のアルバムをわざわざ見ようという気はなかった。
 フラッシュをたいた写真の中で、濃紺の着物をまとった、青白い顔が冷たくこちらを見返している。思わず私は目を背けた。
 今この写真をほうっておいたら、きっと母さんは怒るだろう。
 目の前にあることが片付いていないのに、誰よりも腹を立てる人だから。
 仕方なしに本棚の上の段から、薄い冊子のようなアルバムを取り出した。
 足をかけていた椅子から降りようとして、ふと思い立つ。そういえば、中学校の卒業式から、二年近くアルバムを見ていない。
私は足をかけなおして、何十冊も並んだアルバムから、数冊をとりだした。
 アルバムは一冊で三ヶ月分くらい収まっている。  几帳面な母さんは、表紙に最初に貼った写真と、最後に貼った写真の年月日を記入していた。
 「H.20.07.08〜」とあるアルバムに、冷ややかにこちらを見る私の写真を貼った。
 一番古いアルバムは、途中から中三のときの夏祭りの写真があって、そこから学校行事の写真しかなかったために、実質ほかのアルバムより、若干経った月日が長い。
 二月に撮った、クラスのレクでの晴れやかな笑顔で終わっている。
 このあとに卒業写真を収め、それから私はアルバムに触れていなかった。
 高校の入学前後でさえ、現像された自分の顔を見ていなかった。
 二冊目の冊子には、期待と不安と悲しさを抱えたような、口元が引きつって見える私がいた。
 中学校の正門を前に、数人の親友とお決まりのピースサイン。左手には皆、同じ筒のようなものをもっていた。
 けれども、誰もが誇らしそうなのに、一人として笑っていなかった。
 確かに口元が微笑んでいる。でも歪んでいた。みんな私と同じ口で微笑んでいた。なにより、瞳が各々の主張を訴えていて、痛ましくさえ思えた。
 さびしいの、悲しいの、まだここにいたいの、ここから離して。
 別れたくないの、今がいいの、戻りたくはないけど、進みたくない。
 一際瞳がぎらついていて、不安があふれて飲み込まれそうだったのが、ほかでもない私だった。
 先ほどのレクのときとは違う誰かが、自分の中に取り憑いたように見えた。
 次のページをめくったときには、そこには恨みに近いものも孕んでいるように見えた。
 真新しい制服を来た私は、硬い表情で直立している。
 なぜ自分がここにいるのかわからないと言うように。
 何かわからないものを恨んでいる彼女の瞳が、こちらを見据えていた。
 怖くなってページをめくる。まだ彼女の表情は硬かった。
 次の写真は修学旅行のものだった。一人ぼっちだった私を見かねて、担任が無理やり数の足りない班に私を押し込んだのを憶えている。
 そこには雄大な景色を背に、これ以上ないほど興奮した表情で笑うクラスメートの姿が写っていた。
 ただ一人、みんなから距離をとって、あてのないどこかを眺めている私を残して。
 卒業写真の時の、ぎらついた瞳の主張が全身に及んでいるように思った。
 けれどその写真の中で、肝心の目は何も訴えてこなかった。
 アルバムのページを捲るごとに、私の表情はどんどん荒んでいった。
 こちらをにらんだり、あるいは気のない表情をしたり。軽蔑や中傷を込めた眼差しをなげられる度に、私の胸がどこか痛んだ。
 汗ばんだ指で月日が流されていき、その年の冬になると、もう私には表情がなかった。
 怒ったような、焦れるような様子はしばしば見かけたものの、恨みや辛さはすべて押し込めてしまったかのように、つまらない顔をしてそこに収まっていた。
 同じ表情が淡々と、最後のアルバムまで続いた。
 無表情の着物姿に戻った後に、もう一度二年前のアルバムを開く。
 血色のいい顔をした、確かに「笑って」いた私と比較して、改めて今を惨めに思った。
 私はいつからこの笑顔を忘れてしまったのだろう。
 答えは歴然としていたけれど、いまさら取り戻せそうになかった。取り戻す方法が、いまの私にはとてつもなく億劫で、恐ろしいものだった。
 おもむろにアルバムを元の場所に戻し、引き出しから手鏡を出した。
 口だけを映して、そこからだんだんと上にもっていく。けれど鼻筋が完全に見えたところで、その手は動かなくなった。
 どんなに頑張っても、その瞳を見つめる自信が生まれてこなかった。



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