日曜日の夕方、と言われたところで、それがいつごろかという具体的指定がないことに、悲しいがその日まで気づかなかった。
会うか会うまいかという重大な問題に蹴りを付けられないままで、考えはそこにしか及んでいなかった。未だに悩んだままに、行くか行かないかの二択が迫る。
あの人は優しそうだった、けれども言っていることがおかしかった、落ち着いた老人だ、けど、本当にいい人か。見知らぬ人だ。怪しい格好だった。だけど穏やかな目をしていた。
彼に対する様々な記憶や印象が私の頭を渦巻いた。若干信用できない部分があったけれど、私はこの家を留守にする口実を作りたかった。
このあたりはそれ程物騒でもないし、あの公園は位置的に人目にもつきやすい。特にこの季節には、夕方の涼しい時間に散歩に通る人も少なくなかった。
別に一人で会いに行っても何も問題がなさそうだ。
仮に家を出るなら、理由はなんと言おう。両親は仕事で、姉はバイトに出ていて誰もいない。
親はともかく、姉は私より先に帰ってくるだろう。からっぽの部屋を見られたら、何か訊かれるに違いない。
優しそうな老人の相手をしていたとストレートに言えるだろうか。友達の家に遊びにいっていた? 信憑性がないにも程がある。
出不精の私がこんな時間に家を出るのも不自然すぎた。
散々悩んだ挙句、早めに家を出て、留守にしていた時間を誤魔化すという作戦でなんとか落ち着いた。あとの細かいフォローは向こうで考えよう。
建物に阻まれて切れ切れに差し込んだ斜陽の光が、部屋を温かみのある色へと変えていく頃に家を出た。
ちょっとばかり早すぎただろうか、そういう明るさだったのに、彼はブランコを揺らして待っていた。
こちらを振り向くと、ちょいちょいと手招きをする。たった今来たばかり、といった素振りだった。
傍から見れば滑稽な姿だが、彼は気にも留めていないようだ。
「席を二つ、約束どおり確保してくれてありがとうございます」
近寄るや否や、老人は座ったままの大勢で、例の恭しいお辞儀をした。
「あの、いちいちお辞儀されても困ります。それに、私は今来たばかりです」
視線を横にそらして、だからブランコを二つ確保したわけじゃありません、というつもりで言ったのに、彼は朗らかに
「ああ、あなたが今来たばかりなのは、ここで見ていたから知っていますよ」
と答えただけだった。まったく答えがかみ合っていない。私の二つの訂正は、両方とも見事に流された。
「それで、なんだって一度会っただけの子供をこんな時間に呼んだんです」
隣のブランコに座って、金属がもたらす不快な音を聞きながら、正面を向いてたずねた。
犬の散歩に出ていた飼い主同士が話し込んでいる。一方の、耳の立った並の大きさをした犬が吠えた。
高校生くらいの人が握るリードを引っ張って、子犬が哀れみを乞うような声を発しながら逃げていた。
張り詰めたリードを引き寄せて、それでも飼い主は子犬を助けようとはしない。話してばかりでそちらに見向きもしなかった。おそらくこのような事は珍しくないのだろう。
老人は私の問いに答えていない。一瞬、視線だけを彼の方に向けると、ようやく彼は答えた。
「私は仕事をしているときに、あなたを見つけました。あなたはお客様として適任だったゆえに、こうしてお呼びしたのです」
「だから仕事って何なんです。私が付き合わされた本当の理由って何ですか」
老人は再び押し黙ってしまった。私は苛々して、膝に置いた両手の人差し指で膝を打った。
「お客様の質問には答えてあげるのが筋なんじゃないですか」
「ええ、お客様が私と目を合わせてくだされば。俯きがちに来るなり隣に座って、一度もこちらを見ない方でなければ」
皮肉を詰め込んだ問いにも、彼は動じずに答えた。今度は私が黙る時間を要した。
「それは……できません」
どうしてですか、と優しく問いかける声がした。答えたくても唇が動かない。
「私の目を見て話せない、それでいいですね」
先ほどの彼の発言を覆す台詞だったが、考えることをせずに済んだ私には助かった。
「私以外の人とは話せますか」
「話ならできます」
「私以外の人と目を合わせられますか」
「……できません」
相手を黙らす努力をしていたのが私なら、彼は相手を導く努力をしているようだった。
彼は当たり前のようになんでも訊いてくるけれど、どこにも棘や無理強いが無くて、人と話すときの苦痛を少しだけ忘れさせてくれるようだった。
今目を合わせても、この間一瞬だけ見たような優しい目をしているのだろうか。暖かくて、包み込むようなあの目を。
外郭だけ取り繕って、全然何も感じていない人のような、硝子のような瞳をしていないだろうか。笑った顔でもそこだけ異質で、少しでも表情を崩すと露骨に見える、ぎらついた瞳を持っていないだろうか。
それを確かめたかったけれど、ついに確認するまで踏み切れなかった。
「私の仕事は」
唐突に老人が言った。さっきの犬たちの間では、すでに主従関係ができていた。
「この公園を一人で使う人に声をかけ、話をする。もしくは家に招いて、時間を共有してやる。それだけです」
「それだけ、ですか」
つかみどころの無い話の振り方や回答に戸惑いつつも、探りを入れるように私は尋ねた。
「それだけです」と老人は強調しただけだった。
「どちらかといえば、私の家に招くことが多いですがね」
「カウンセリングですか」
老人は心外だ、という声で言った。
「あなたは自分が、カウンセリングが必要な人間だと思っているのですか。分かりきったことを反芻され、確認するのが好きなのですか。カウンセリングは物事を主観的にしか見られなくなった人間が必要とする場です。あなたはそうではないでしょう」
彼は断言したが、私にはどこも否定できなかった。
彼は私が物事を客観視できる人間だと判断したらしい。それでいながら、敢えてそのことを口にしたのが気にかかった。
私が必要としているのはカウンセリング自体ではないが、それに近いものであるということを、たった二回しか会っていない老人に見抜かれた気がした。
「カウンセリングじゃないなら、なんなんです」
汗のにじんだ親指で、鎖の一部をなぞった。
老人はそうですねえ、と呆れるほどのんびりした調子で言った。一瞬足元をよぎった影を見て、反射的に私は空を仰ぐ。
「ヌクヤ、という自営業だとしか」
何か定義づけるとすれば、と彼はまたのんびりと考え始めた。影の正体だった烏が、電灯の上を羽ばたいていった。明滅を繰り返していた光はいっそう弱くなって見えた。
「ぬくもりと自由そのものの提供、といったところでしょうか」
彼がこれを自分の職業と言うならば、自営業という情報だけ持ち帰ろう。
呆れ半分に名刺を受け取りながら、それでもその抽象的な営業目的に、僅かながらに魅かれていた。
何を期待しているのだ、そんなロマンチシズムな職業など、老いぼれの夢見事だと言い聞かせる。
自分の影で見えにくかった為に夕日にかざした、ちっぽけな名刺が煌いた。
眩しさに目を細め、赤い光を帯びた紙切れを見つめていた。
「ヌクヤに休日はありません。羽を休めたくなったら、いつでも来てください」
突如として強い風が吹き、長く伸ばした私の髪を乱した。
左右で軋んだ金属音が鳴り、すぐに風は落ち着いた。
さっきまではあったはずなのに、感じられなくなった気配を探して、恐る恐る隣をみると、そこに座っていた老人はいなかった。