目の前に灯った街灯は接続が悪いのか、ちらちらと明滅を繰り返している。寄り集まった小さな虫が、細かな斑点となって周囲にまとわりついていた。
 沈み掛けた夕日が、はしゃぐ子供達に長い影を落とす。
 風のさざめきや落ち葉の擦れた音、どこか感傷的な気分にさせる蜩の声。体を僅かに揺らすと、上から垂れ下がった鎖も連動して、錆付いた金属が立てる不快な音が響いた。
 ぎしりぎしりと、私の心に絡みつくように。
「隣に座ってもいいでしょうか」
 突然声を掛けられて、私は飛び上がった。
 声のしたほうに視線を向けると、そこには年老いた男性がいた。茶色の背広と同じ色の、鍔の広い帽子から、柔和な瞳がこちらを見ていた。西日を帽子が遮って、顔全体はよく分からない。
 彼は私の返事を待っていた。私の座っているブランコの横にある、空いた席を隔て、そこに腰掛けず鎖を揺らすばかりで動かなかった。
「どうぞ」
 老人は恭しく礼をして腰掛けた。目を見て話をしたくなかったから、すぐに正面に視線を戻した。
「ブランコに乗るのに、わざわざ人に断らなくてもいいんですよ」
「ですが性分なものでして。人生で会う人は全てが神様ですからね」
 穏やかに彼は答えた。
 おかしなことを言う人だ、まるで宗教者みたい。私は彼にばれないように、僅かにブランコを遠ざけた。
「帰らなくていいのですか」
 老人が言った。平日にこんな時間まで一人いれば、言われて当然の言葉だった。
「あなたこそ、こんなところで何をしているんです」
 二組の鎖が、耳障りな音を断続的に鳴らしている。
 前を向いたままたずねると、老人は悲しそうな声で言った。
「仕事をしているのです」
 俄かに冷たい風が吹き、薄手のブラウスの袖口から忍び込んで私の肌を舐めた。身震いをすると、寒いのですか、と気遣わしげな声がした。答えず私はブランコを揺らした。
 風が私を通り抜け、木の葉がこすれあう。
 街灯は導火線が燃えるような音を立てていた。空には群青と白の境目ができている。
「きれいなものです。晩夏の公園は、空が頭上にプラネタリウムを持ってくる途中経過が見られますからね」
 老人はどこか重たい口調で言った。
「どうして一人で来ているんですか」
「独り身なものでして」
 老人は照れくさそうに言った。
「奥さん、いないんですか」
「別れましたよ。お互いに自分の時間を生きたいという理由でね」
「お孫さんは」
「一年近く音信不通ですよ」
 尻すぼみの言葉を言ってから、老人は黙り込んでしまった。
「すみません、余計なことを訊いて」
「いえ、構わないのですよ」
 ボールがこちらに転がってきた。ボールを視線で追っていくと、浅黒い大きな手がそれを包み込み、駆け寄ってきた子供に手渡した。
 子供は高潮した頬を綻ばせ、「ありがとう、おじいちゃん」と愛らしい声で礼をし、駆け戻っていった。
「子供はいつ見ても可愛いものですね」
 あたりにモヤのような煙が漂い始め、私は両手で口を覆って咳き込んだ。
「おや、失礼」
 老人は点けたばかりのタバコを足元に落として揉み消した。
「最近、どうも無意識にタバコを口にくわえてしまうようでして」
 さて、と老人は腰を上げた。私と話をしていて、ものの十分も経っていない気がする。
「もうお帰りなさい。私の背広を貸してあげます、返すのはいつでも結構ですから」
 老人は言葉通りに、自分の着ていた背広を私に羽織らせた。肩に指が触れ、どきりとする。
「結構です。いったい何なんです、見ず知らずの人に自分のものを貸したりして」
 反射的に背広を脱いで突き出し、気づいたときにはそう言っていた。そこで初めて、真っ直ぐに老人の顔を見た。オレンジの残光に照らされて、地黒に口髭を蓄えた厳しい顔立ちと、それに似合わない柔和な双眸が見て取れた。
 親切心を跳ね返されたのに、この老人はとても穏やかな顔をしていた。むしろ嬉しそうにさえ見える。
「やっとこちらを見てくれましたね」
 老人は背広を受け取って微笑んだ。
「私があなたに親しくする理由は、先ほどあなたにいいましたが」
「すみません、どのときの話ですか」
 風が彼の帽子をさらい、足元に落とした。拾った彼は砂埃を落とし、落ち着き払った声で言った。
「あなたは私にとって神様であり、私は今仕事をしている、ということです」
 帽子を被りなおし、彼は席をたって、私に背を向けて歩き出した。
 ふと足を止め、思い立ったことがあるようにこちらを向いた。
「日曜日の夕暮れ、この時間に会いましょう。今日はあなたも帰ったほうがいいですよ」
 それから、と彼は私の少し手前を指差した。
「ブランコは隣接したのを二つ分、空けておいてください」
 そうして私の隣に腰掛ける前にもしたように、丁寧に一礼して踵を返したのだった。
 私はその凛とした後姿を見つめながら、ただひたすら、彼の言う“理由”の意味を考えていた。



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