また彼女はそれを叩き潰した。
 部屋の音のほとんどを占めていた水音を破り、硬くて鈍い音が響く。私が蛇口をひねると、寂れた空間は彼女のだす破壊の音で満たされた。
 作業机に筆洗いを置いた時には、音はやみ、彼女は塊と化した粘土を、白く細長い指で弄んでいた。窄みぎみの赤い唇は無防備に開き、伏せられた大きな目は無邪気に粘土を見ている。
「展覧会には間に合うの?」
 彼女の向かい側で色を作りながら訊く。
 これで5日目だと思うとうんざりする。今までもこんな調子だったけど、なかなか焦らずにいるのは難しい。
 付き合いが短くとも、また素人目であっても、目に付き特別だと思わせる人はいる。彼女もそういう人だった。
 私が見ている限り、彼女は特に造形が得意なようだった。手先が器用でいつも作るのが早く、独創性に溢れた作品をつくるのが上手い人だった。
 けれど、それだけが彼女を特別に見せたわけじゃない。むしろ私に衝撃を受けさせたのは、彼女の壊す早さだった。
 ちょっと考えただけで閃き、無心でつくっていたかと思うと、突然ためらいもせずに壊す。それが何度も繰り返された。
 自分じゃ到底作れそうにないものが、彼女の手の内でぱっと生まれてあっという間に消されていく。その光景は、見ている私をどうしようもなく虚しい気分にさせた。同じ人間の掌で、私じゃつくれないものが――。
 面相筆で描いた線が明るすぎた。どう誤魔化そうかしらと考えるのも、もはやとっくに飽きていた。考え考え作る割に根性が足りない性分には気づいているが、彼女の向かいで人間の限界を感じないほうがおかしい。屁理屈をこねて思考からの逃げ場を求め、彼女の作業を見ることで妥協した。
「展覧会……ああ。それは昨日できた。今日のは自主制作」
 やや間をおいて、ぼそぼそと彼女が答えた。粘土をいじくり回していた手がはたと止まる。急にこね始めた。
「何を作っているの?」
 いいながら、私は彼女の手から顔へと視線を移した。つくるときの彼女の顔は、確信めいた手さばきとは対照的にぼんやりしている。心ここにあらずという目で、他人が作業する様子を見ているかのようだ。もし彼女から腕をもいだとしても、腕だけが勝手に動いてものをつくり出しそうである。
 彼女は私の質問に答えない。まぁ、作業中に訊いた私も悪いのだが。
 にわかに彼女は手を止めて、表情を険しくした。平行だった眉が寄り、瞼に乗るたっぷりとした睫毛が持ち上がった。形のいい唇がきゅっと結べられる。初めて腕とリンクしたようだった。
「ちがう」
 言うなり、彼女はその表情で破壊を始めた。すらっとした指を手のひらに食い込ませ、手の甲には、青い血管がいつも以上にはっきり見える。
 再び粘土を固まりに戻し、彼女は一息ついた。
「何をつくろうとしたの」
 もう一度訊く。彼女はそこで初めて、私がいたことを思い出したようだ。
 ちらと私を見、少し考える素振りをしてから、私越しに何かを見た。
 その目線を追うと、高い位置にある縦長の窓を見ていた。
 窓の桟から延長して同じ幅の板が取り付けられており、その右端のほうに空の鳥かごが置かれている。窓の光と長く伸びた影が、明度の強いストライプをつくっている。
 外では空と木とグラウンドで色が大きく三つに分かれている。
「……トリ、かな」
 彼女が答えた。雲ひとつない空の中を、黒い群れが横切っていった。視線を戻すと、彼女はどこか上の空で、まだ窓のほうを見ていた。
「鳥……」
「そう、トリ。あれを見て、どうしようもなく形にしたくなったの」
 そして彼女はまた粘土を弄り始めた。
「何の鳥をみたの」
 何気なく尋ねたとき、彼女はすでにつくり直していた。無論私の疑問は宙をさまよい、分解される。誰にともなく肩をすくめ、私は窓辺に寄った。
 彼女はあの席から窓を見たのだろうか。眩い光に満ちた青が目に痛い。その中に黒い残像を見た気がした。私のように空に飛ぶ鳥を見たのだろうか。白い枠の窓を上にあげると、強い日差しとは対照的に風が涼しい。身を乗り出して、開けたヴィジョンを見渡す。見上げるとツバメの巣があった。
 何かが右肘に当たり、カンカララン……と乾いた音がした。音のしたほうを見ると、鳥かごを引っ掛けて落としていた。弾みで扉が開いたり閉じたりする。重苦しい破壊の音が、後ろで始まった。
 彼女は無言で壊している。鳥かごが落ちたことにも気づいていないようだ。無言で、音にも気づかず、一心不乱に、壊している。
 急に、彼女のしていることが空恐ろしく思えた。
 彼女は壊している。もとあったものの形を歪めている。誕生という既成の事実をもたらした、自らの白い拳でそれを抹消している。浮いた血管が、見開いた目が、なびくまっすぐな黒髪が、見ているこちらを総毛立たせる。それでもなお美しい彼女に私は慄く。
 怒っている。ただそれだけが引き起こすエネルギーが尋常ではなく、そのすべてを、粘土を塊に還すことだけに使っている。
 ゆらゆらと手の白さだけが目に焼きつく。今までの羨望の浅はかさに気が付いた。これは私と同じ手じゃない。人間の掌じゃない。
 確実に、怖れという感情が私を支配していた。
 絶対に許さないという、おぞましいほどの執着。納得がいかないとか、じれったいとか、そんな表現では生半可だ。見ているだけでそれが伝わってきて、そのことが更に私を恐怖へ陥れる。
 いや、本当にそれだけか? 私が恐怖を抱くわけは。彼女の怒りに対してだけじゃない。個人的な感情に影響されただけで、こんな突き上げるような戦慄は感じないはずだ。
 私は、彼女が成している行為が恐ろしい。この殺戮めいた、見知らぬ誰かの悲鳴さえ聞こえてきそうな、滅ぶという圧倒的な現象に身震いがするのだ。
 滅ぶ、という言葉が出てきたことに、私自身が驚いた。だがそれは間違っていない、と自分が判断したことにも。
 再び唐突に言葉が脳裏をよぎった。あまりの唐突さに戸惑いながら、しかし適した言葉だとどこかで認めながら、記憶に紛れた言葉を捜す。
 これは――罰? 彼女自身への、それとも気に入らない形で生まれたもの達への――?
「どうしたの?」
 突然彼女と目が合った。顔を上げた途端に自分を見ている目があって、彼女が面食らうのも無理はない。いや、もしかしたら彼女を困らせたのは目が合ったこと自体ではないのかもしれない。
 そう考えたのは、自分も同じように狼狽えていたからだ。見透かされたと思ったからだ、彼女の罰に気づいてしまったことを。
 伏せているときは無邪気に見えた、目がかち合って驚く前の、睫毛の長い黒目がちな双眸は、醒めていた。私たちは、しばらく鏡のようにうろたえていた。
「そうだ、それは何の鳥をモチーフにしているの?」
 いかにも流れを変えるための口実のように思えたので、
「ってさっき訊いたんだけど」と付け加えた。
 再び彼女は少し考えた。
「なんだろう、私が作りたいのはそういうのじゃないの」
 ぼんやりと窓の外に視線を運んで、それから彼女は何かに気づいた。
「あれ、鳥かごがないわ」
「ああ。私が肘を引っ掛けて落としちゃったの」
 そういえば元に戻していなかったそれを、私は板の上に戻した。空を背にして佇むそれは、奇妙な位にその場所に落ち着いた。
「扉が開いているわよ」
 後ろで咎めるような声がした。彼女は扉が開いているのを嫌う。休み時間であれ夏であれ、彼女は扉が開いているのを見つけると必ず閉めに行った。ここに入るときに閉めたはずだと思って左を向いたが、やはり扉はしまっていた。
「どこ見てるの。鳥かごよ」
 不機嫌そうに彼女が言う。確かに鳥かごの扉が開け放たれたままだ。それにしても、鳥かごからは誰も彼女を揶揄しないのに、ここまで来ると病気だ。閉めようとして、留め金が壊れていることに気がついた。
 それに気づいた彼女は、いそいで針金を取りにいって扉を固定した。それから、始めから空の中をのぞいて、ちょっと悔しそうな顔をした。
「駄目だわ」
 独り言のように呟いた。「多分、逃げちゃっているわ」
 彼女は席に戻った。私も向かい側に座った。
「さっきの話だけど」
 何を指しているのか一瞬分からなかったが、すぐに鳥のモチーフについての事だと思い出す。
「私はね、創りたいものを覚えて、記憶を頼りに形にするのよ」
 彼女はもどかしそうに指を動かした。
「記憶の中ではそれは確かに形を持っている。けれど表現しようとするとどんどん歪んでしまうの。ぼやけて、これは本当に形があったのかって分からなくなるときもあるの。作業するほどに不確かになるのに、手を休めると実体を取り戻し始める。けれど、それが最初の記憶と微妙に違う気がする」
 緩く開いた両手を恨めしそうにみた。ふっと醒めた表情になる。何かを見透かすような、そして対象を卑下するような目。
「私はトリを見て、それを形にしたいと思ったのよ。それだけ」
 そういってまた粘土をこね始めた。
「それが難しいのだけど」
 右脇に退けられた筆箱に何か挟まれている。展覧会に出す作品につけるカードだ。二枚ある。上の紙にはタイトルが「トリ」とあった。まさか、これまでも出品するわけではあるまい。下の紙がずれていて、タイトルだけが何とか見える――「ユメ」。
 形にしたいと思った。それが難しいのだけれど。机にまで伸びたストライプの中に、黒い残像を見た気がした。
 風が吹いて、乾かしていた自分の作品が飛ばされた。彼女の前髪がかき上げられる。広い額と寄せ合った眉があらわになった。
 作品を拾おうと腰を屈めたとき、本能的に体が怯えた。直後、隣で鈍い音がした。
 また彼女はそれを叩き潰した。伏せた目は、恐らく静かで底知れぬ怒りを湛えている。
 生成と終焉が、彼女の震える手の中で繰り返されていた。



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