雨は嫌い。鬱蒼とした空気が取り巻くのは、麻奈には苦痛でしかなかった。
天気一つで気分が変わると、同じ一日でも様変わりするものだ。低気圧が運んでくる日はロクなことが無い。
それでも彼女は、雨は身近な存在な気がする、という事実を否定できない。
晴れの日に自分が放つオーラが、どこか雨と似ている気がする。雨に身をゆだねる自分は、不機嫌でありながら安らぎを覚える。同化、というのか。そこに溶け込んで、拡散しそうな感覚がする。いつからか、彼女はそんなことを自覚するようになっていた。
そうだ。私は雨の中にいたのではなく、雨だった。
詰めてくださいと促されて、立っている乗客は渋々奥へ入る。だんだん密度と気温が上がるが、麻奈の体内は変わらず冷え切っている。
バスの窓を雨が泣かせているのが目に付いた。
おお、ここまで私と似ていようとは。可笑しさと嫌悪が入り混じって彼女は苦い顔をした。
輪郭のぼやけた景色が流れ出す。濃霧のような光に包まれた気だるい風景。様々な色がそれに滲んで浮かび、背後へと消えていく。黄色もだ。同じ色の服を着た麻奈も、あれくらいの存在感を町に放っているわけだ。
いや、存在感があるのは服だけか。彼女はそっと窓に、空っぽで冴えた頭を預ける。ガラスの結露が頬について、もらい泣きだ。
色が移ろう画面を見ているうちに、自分を乗せたバスが目的地を変えて勝手な方向へ進まないかと望みだす。外の景色は憂鬱だ。
向こうから私の姿は見えるだろうか。
この黄色い服を見て、人が――私がいると気づいてくれるだろうか。
……あ、今通った赤い車、あれは黄色より目立つなあ。
やはり赤の存在は強いものだと、去っていった色の残像を脳裏で追いながら納得した。
ほら、また赤。
同じ色ばかりを目で追っていると、軽い目眩を覚えてくる。目立つ色は赤だけではないが、やはり赤の独特の存在感には敵っていない。
目の奥で焼きついて離れない、強く燃える色。
けれどそれは明るくて強い。チラチラと燻ぶる炎の色は、あれも赤いけれど、さっきの赤じゃない。
ひとつの光景が目に浮かんだ。真っ黒な背景で、積み重なった何本かの木材があり、その中に疼く火があった。
力の増大を待ち、粘り強く、舐めるように辺りを這って燃える赤。負の色。
博物館にほど近いバス停で、ほとんどの客が降りた。残りはここから二つ先の終点で降りる人ばかりだろう。
一人終点から手前の、住宅街にあるバス停で降りる。麻奈は父から借りた、灰色に紺のチェックが掛かった渋めの傘を広げる。母の小花柄の傘の方がましだったが、出かける予定が重なってしまったから仕方ない。
借りた身で言えないと思いつつ、麻奈はこの傘が好きではなかった。デザインもそうだが、それより色が気に入らない。
明るい色調のコーディネートから妙に浮いた傘を差し、足早に歩き出す。雨はひどくなる一方だ。
傘の下から鈍色の空を覗いてみると、紺のチェックが浮き立つ。麻奈は紺が大嫌いだ。この色を見ていると気分が落ち込んでしまう。
空や海の青は嫌いではない。筒抜けで何もない青はむしろ好きだ。麻奈はそこに安らぎや落ち着きを覚える。
だが、紺は青より黒に近い。冷静さや理路整然とした様子を青に感じると聞くが、それならこの青は屈折した理性の色だ。
失望や謀略の影を麻奈はそこに見てしまう。ひっくるめて、雨の日のような色だった。
雨は嫌い。折れた前の自分の傘より二回りほど大きい傘でも、鞄を守ったせいで肩が随分濡れた。全体的にしっとりとしてきて、身震いと同時にくしゃみが出た。
色が目立つ、おそらく電灯を点けるだろう看板のパブを過ぎ、目的の家に着いた頃には鞄も湿っていた。
「ひどい雨よね」
タオルを運びながら、他人事のように梓が言った。麻奈が拭いた洋服を眺め、いつも通り褒めて、タオルを受け取り、あがってと言って洗面所に引っ込んだ。
麻奈もいつも通りに梓の部屋に入る。相変わらず、散らかっていないが殺風景な部屋だった。白い壁に茶色や灰色の家具が置いてあるだけの部屋は、暗がりで見ると寂しくて頼りない。
明かりをつけ、部屋の中央にある折りたたみ式のアイロン台に荷物を出す。梓はアイロン台を平気でちゃぶ台代わりにしている。
タオルの代わりに、クッキーの入った皿を持って梓が入ってきた。
「コート貸して」
梓は皿をアイロン台の真ん中に置き、コートを受け取る。麻奈から黄色い存在感が奪われ、残ったのは淡いベージュだけだった。
「クッキー摘んでていいから」
言いながら、またリビングに引き返していった。
忙しい人だなと麻奈は思う。手際が良いように見えて、実はアクションが速いだけなのかもしれない。
皿に入っていたのは、丸や星型に型抜きされたアーモンドクッキーと、ココア生地を使った市松模様のクッキー、生地を絞って輪にしたシナモンクッキーだった。
一目で二種類が梓の作ったもので、あとは別の人のものだと分かる。欠けた丸型のクッキーを食べると、粉っぽくて舌でざらついた。
間もなく牛乳の注がれたマグカップをを持って梓が戻ってきた。クッキーの皿の大きさを考えれば、マグと皿は盆に置けば全て一度で運べそうだった。やっぱり無駄が多いのだ。
日焼けして色褪せたアイロン台に、二つの白いマグが乗ったところで何も変わらない。
やっぱり雨の日に梓の家に来ちゃだめだ。そう分かっているからこそ、次の断れないだろう誘いを思うと憂鬱になる。
脳で渦巻く膨大な黒い煙は、決まって頭の中から口へと一気に抜けようとする。煙を吐き出しそうになるのをこらえて、麻奈はいつも鼻からそれを出す。ゆっくりと、空気に溶かすように。相手にばれない様に長く息を吐く。
吐ききった後でも、息を吸うとすぐに、頭に新しくもやが立ち始める。また吐き出す。吐ききって吸う……。
なだらかな抑揚の吐息が、どれほど黒いか、梓には分からないだろう。分かられては困る。
麻奈はシナモンクッキーを頬張って、牛乳で煙と一緒に胃へ流した。唇に吸い付く膜の下から牛乳を飲むと、黒い煙が牛乳に溶け込んで、胃へ落ちていくのが分かった。
「さてと」
梓はまっさらな画用紙を台に置いた。
「何も描いてなかったの?」
驚こうか呆れようか考えながら言った言葉は、自分でちょっと鼻につく感じだと思った。
「何回か描いたけど気に入らなくって。配色のバランスがねえ」
梓は妙なところにこだわる。彼女にとって、絵では色がもっとも大事であり、だから彼女の絵のコンセプトは常にバラバラだ。描き込まれた写実的なものもあれば、キュビズムのような絵もある。
梓は画面をみて数十秒黙り込むと、突然、握っていた鉛筆で描き始めた。いつもこんな調子だ。見えたかのように、次々に色の配置まで書き込んでいく。鉛筆を走らせながら梓は訊いた。
「麻奈ってパステルとか柑橘系の色、好きだよね。いつも春っぽい感じ」
どこか無機質な言い方で、褒めているのか不満なのかもよく分からない。が、多分どちらでもないだろう。
別に好きではない。消去法で残った色を使っているだけだった。パステルなど、ふわふわしていて、着ていて落ち着かないくらいである。
しかしそういう色を選んでいるのは事実だし、他の色に変える気はない。
あれはどうだろうか、と思った。家に着く前に通った、寂れたパブの、電灯の点いていない看板を思い出す。白抜きの店名が虫食いのような状態になっていたのを、妙にはっきり覚えていた。
くすんだその背景の色、あの色はよくわからない。怖いような、近しいような感じがする。嫌いではないが手をつけたくない色だ。
麻奈はなるべく嘘にならない言葉を探した。
「そうだね。明るい色っていいじゃない、心が浮き立つし」
なんとか嘘の中心からは逸れた。やや間を置いて、鉛筆の音が止む。それはそうだけど、と言う返事が来たのはその後だ。絵の具を混ぜ始めたので放っておくと、混ぜ終わった頃に梓は話を蒸し返す。
「でもさ、たまには暗めの色とか、パンチの効いた色とか使ってみたらどう?」
モノトーンとか赤とか青とか、と色を挙げながら、梓は白かった部屋の絵に平気で灰色の絵の具を塗りだす。明度の落ちた画面に、梓の赤い服の袖がよく映えた。
あ、この赤だ。梓の服を見て、今更のように麻奈は気付いた。ワインレッドを、もっと色濃く暗くしたような色。
麻奈の視線に気付いた梓は、ゆったりとした袖を振った。
「あ、これ? これお姉ちゃんが通販で頼んで、色がイメージと違ったって。返品にもお金掛かるからって貰ったの」
でもダサいよねと、台詞ほど興味はなさそうに言った。視線もすぐに絵へ戻る。二、三回筆を運んで休める。
梓は絵の色にこだわるくせに、彩色を一番嫌がった。マグに口をつけ、また二、三回描いただけで、けどさあと話し始める。忙しい人だ。
「なんか紫って感じだよね、麻奈は」
梓はクッキーに手を伸ばした。
ゆったりとした、暗い赤の袖が浮く。皿につかないようにと、梓は軽くそれを捲る。
赤い袖が、ゆらゆらと弱く、揺れた。
麻奈がその動きをじっと眺めていても、梓は気に留めない。気付いていないのかも知れない。気付かれては困る。
「藤色みたいのじゃなくて、もっと濃い紫。そういうの似合うんじゃない?」
赤と青混ぜただけだけどと、梓は冗談めかして笑った。
麻奈の頭の中で、パブの看板が点灯した。接続の悪いせいか明滅している。明るくなった看板は、白抜きの文字の残像を残して暗くなる。
『パブ 紫苑』
麻奈もクッキーを食べた。ぬるくなった牛乳を、ゆっくりと胃へ流す。長く息を吐き出しながら、冷えた指先でマグの淵をなぞった。
雨の日は嫌いだ。