ORDER.05 「桜」

 僕は窓から桜を眺めるのが好きだった。正確には、教室の窓から見える桜の枝を、授業中に眺めているのが好きだった。
 別に桜の花が好きだったわけではなくて、ただ窓の外が見れればなんでもよかった。以前の学年の時には電線と空ばかりが見えたが、それより下の教室に来たら桜があっただけだ。
 だから葉の虫食いを陽光が貫通する夏から、染まり行く秋、はだけた隙間から空を剥き出しにする冬まで、飽くことなく僕は桜を観察していた。
 あるとき、何がそんなに楽しいのかと女子に聞かれたことがある。男子は元より、傍から見てセンチメンタルに見えるだろう僕をあまり相手にしたがらなかった。何を考えているのか分からない、退屈なのかと彼らに言われた。
 僕はただ素直に、何も楽しくないと女子に答えた。ただそれは退屈というわけではないとも付け加えた。
 それが楽しい、という感情を持つ可能性がある行為だと考えたことさえなかった。
 実際、そこには楽しさや退屈というものは介入しない。無心とも違う。ああ、今日はこんな枝か、と感想を漏らす隙間はいつもあった。
 ただプレーンになれるのだった。縺れ合った糸を掻き分けて自分の意図を捕まえる必要がなくなる。ただ白紙だけが残っていて、ああ、今日はこんな枝か、という事だけを綴るのが可能になるのだ。
 女子はふうん、と言ったきりで、そのまま自分の席に戻っていった。
 何故突然にそんなことを尋ねられたのか、僕には分からなかった。
 僕が奇妙に見えたのだろうか、というより、僕に話しかけたのは何故だろう、という点において疑問だった。
 女子はクラスを纏めたがるタイプで、大方の生徒が彼女に肩を預けていた。
 しかし女子はお節介とはまた違う。学年の四分の三ほどを消化すれば、目立たない奴でも客観的なデータなら出てくる。
 女子は率先して物事をこなすが、でしゃばりではなく、誰彼と話しかける積極性は持たない。
 むしろリーダーとしては向いていない気がする。ただ彼女は前に押し出されているだけだ。人が疎む物を善意で片付けているのだ。
 故に僕が彼女に話しかけられるのは滅多になく、夏休みが空けてからは初めてかもしれなかった。
 それも席を立った女子は真っ直ぐに僕の元へやってきたのだ。彼女は本当に、僕の宛てのない自白の旅への興味が理由で僕に尋ねたのだろうか。
 女子が何故僕に話しかけたのか、無論、僕はそれを訊く術を知らなかった。尋ね方が分からなかった。
 いろいろなシチュエーションが頭を廻り、糸が縺れだす。そうして気がつくと、桜の梢を見上げているのだった。
 薄い色の寒空に映える剥き出しの地肌が、北風に打たれて揺れていた。
 次に女子に話しかけられたのも授業の終わりだった。
 楽しくなくて退屈じゃないなら、それって何なの、と訊いてきた。
 僕は言葉に詰まった。それを伝達する言葉を持ち合わせていないか以前に、伝達するつもりがなかったからだ。
 その感覚は空に放ってあるというべきか。僕は全くの放任だった。そのときはただ「告白」を眺めているだけだから、他の言葉は介入しない。
 そして感覚が空から帰ってきたとき、縺れた糸に邪魔されて、僕はそれを浮き上がらせる言葉を見失うのだ。
 だから僕はそれを形容するのを諦めた。僕が窓を眺める理由を訊く人間が減るに連れて、必要ないのだと思った。
 しかし女子は僕にそれを要求したのだ。僕は急いで糸を解こうとしたが、解けた端から縺れていく。掻き分けて女子の要求に見合う言葉を探した。
 急に白紙になった。だが「告白」が綴られることはない。ただ白い空間に向かって、僕は、答えが欲しいと要求した。要求は声に出したつもりだったが、耳に届かなかった。
 僕が押し黙っているのをしばらく見ていた女子は、腕組をして眉根を寄せた。
 不愉快なのか気味悪がっているのだろう。そう思っていたが、どうやら僕が何故押し黙っているのかを追及したいようだった。
 僕は説明しようとした。しかしどこから? この白紙の「告白」や縺れた糸の渋とさを含めて説明するべきだろうか。
 だがそれさえも、自分の中で整理するために作った例え話で、正確な表現ではない気がした。
 口を開きかけ、間抜けな顔をしたままの僕は何も言えなかった。
 女子も何か物言いたげだったが、彼女が口をもごもごさせているうちに、次の授業が始まった。
 その日から僕は、あの感覚の言語化を試み始めた。
 僕はひたすら机を凝視し、糸を掻き分け、まっさらな空間に叫んだ。
 糸はいままで黒かったが、繰り返すうち、時々眼の眩むような様々な色が付くことがあった。
 しかし展開はいつも同じで、最後の白い空間では僕の発する声は全て無となり、「告白」が現れることもなかった。
 僕はまた、桜や桜越しの空をひたすら眺め、「告白」が何かの拍子に答えを出してくれるのを待った。
 今まで眺めているだけだった「告白」の言葉を、記憶の続く限り覚えようとした。
 白い背景には、時々、『僕は何故こんなことをしているのだろう』『僕は何故この白紙を見ているのだろう』という黒字が浮かんだ。
 今まで意識していなかったが、気を付けて眺めていると繰り返される言葉だった。
 僕にはそれが、呟きなのか、嘆きや焦燥なのかを、黒字から判断することができなかった。
 ときどき「女子」という単語が「告白」に出てきた。
 『僕は女子にどう思われたいのだろう』『僕は何故女子には答えようとする気になれたのだろう』
 「告白」は僕のまっさらな感想であり、そこには肯定や感想しかないと思っていた。
 しかし目に付くのは、いつでも、ぼんやりとした疑問形の文章だけだった。
 いつしか桜は芽吹き、花開いた。その頃には桜は「告白」を知るための手段でしかなかった。
 女子はあの二回を最後に、僕に話しかけることはなかった。それでも僕は答えを探し、「告白」に尋ね返されるのだった。


 ふわりと一陣の風が吹く。
 たったその一撫でで、更に濃密になる桜吹雪。
 その様は潔いと称えられたが、僕には強制された集団自決のように見える。
 やめてやめてと喚き、岳との毛根のように頼りない繋がりに縋る花弁。それを風や梢は容赦なく振り落とし、花弁の残骸が踏まれようとも気にしない。
 悠々と幹は聳え、枝を張り、芽吹き、花を咲かす。
 そして繰り返す。同じことを何度も、何度も。
 桜を見ると、もう当分くぐらないだろう校門や、窓際の席だけにあたる暖房や、柔らかい日差しの差す結露した窓や、寒空に張り出したあの痛々しい桜の梢を思い出す。
『僕は何がしたいのだろう。もう女子にすることはなくなってしまった』
『女子は僕をどう思っていたのだろう』
 僕は桜を眺めるのが好きだった、かつては。




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