ORDER.04 「未来日記」
さて、ここに時間というものがある。時間はよく、数直線であらわされて、僕らの周りを駆け巡る、一度きりのものである。戻れないし、先回りもできないようになっている。
幼いころ、僕は誰からともなくこういう類の話を聞かされるたびに、じゃあ流されてしまってもう戻らない時間はどこへ行くのだろう、と考える。
自然消滅するのか。それとも時間の持つ記憶をデリートされて、再び掛け替えのない時としてリサイクルされるのか。
そもそも時間が僕らの周りを走っているのなら、僕が今使ったのと同じ時間が、世界の裏側にいる人に届くまでに差ができてしまう。ものすごいスピードとか言われても、差は差だし、所詮目に見えないんだもの、ずるしているかも知れないじゃないか。平等じゃない。
時差という概念を知らなかったこのときの僕は、まったくもって思考のエネルギーの使いどころを考えなかった。
地球の中心から宇宙に向かって平等な時間が噴き出しているという発想は地形の高低差を理由に打ち消された。
地表から噴き出しているかもしれない、という仮説も立ったが、時間という概念を必要としない宇宙へ投げ出された奴らはどうなるのだろう、とも考える。
結局のところ目に見えないのだからどうしようもない。随分無意味な周り道を繰り返し、最終的に僕はそう結論付けた。当たり前の話なのに、たどり着いたのがあまりに単純な話だったので、そのときは本気で愕然とした。
だから仕掛けることにした。目に見えないのをいいことに、時間でだまして、ずるしてやろうと思ったのだ。
しかも誰も騙されたことに気が付けないから、僕が咎められることはない。なんていい発想なんだ!
そんな馬鹿みたいな優越感を求めて、馬鹿みたいな話だが、本当にこれがこの日記の出発点となるのだ。
ふと息苦しくなったなと思ったら、その瞬間まで意識がなかったことに気が付いた。
焦って突っ伏した顔を起こすと、空はすっかり燃え上がっていた。肩には薄手の毛布が掛かっていて、どうやらこいつが俺をまどろみの中に引きずり込んだようだ。
まったく母さんは余計なことを、と取り出した覚えすらない毛布を放り投げて伸びをする。ノートの端に涎が引っかかっていて顔をしかめた。秋風が首から背筋を一舐めして、俺は寒気で目を覚ます。
白紙の頁を開いたまま眠ってしまったから、表紙を見られたということはない。胸をなでおろしてそっと閉じる。
「未来日記」とでかでかと書かれたこの文字は、今書くと字形が微妙に違うはずだ。
間抜けな発想を考えた脳みそも、少しは進歩してるといい。
とはいえ、捨てきれず適当なところにこのノートをしまい、何かの折に再会しては、このこましゃくれた"後書き≠読んでしまうのだから、余りそれは期待できない。
生意気な、俺より三つ年下のこいつは、自分が馬鹿であることを自覚して馬鹿を告白している。こいつ、最後の一行が本気でかっこいいと思って締めくくっていた。だがその一行は、今では読むたび俺を赤面させる恥曝しな文でしかない。
だから恥だと今書き加えておいた。これで"後書き≠謔闡Oの文章ができたが、馬鹿の書く本文は所詮馬鹿な内容しかない。
この男は、どうやら"後書き≠ェ書かれた後に本文を書いたようだ。
未来日記ではなく、ただの日記を書いて、過去を批判して、終わり。
過ぎたことにいちいち執着しているならば、彼は三年たっても尚、時間の概念に縛られている可能性があったといえるのではないか。
かくいう私もいい年をしてこのような書き足しをしながら、昔を振り返り失笑してしまうのだが。
さて、どの順序で書かれたのかが分からない。
"後書き≠ゥら書かれたのは読み取れる。だが、それが却って僕を混乱させる。
"後書き≠ェ一番最初に書かれたということは、この日記は順番を要さない、ということだ。書かれた順で読むと繋がりが不自然なのはそのせいだろう。
この二つの記述は、自分が読んだ文を書いているから、おそらくこれが2・3番。印をつけておく。
あとはどうだろ……字形の違いかなあ。特徴はみな同じだけれど、やっぱり上手いや下手はあるし。
一人称の違いや文章の感じから番号を振ってみる。他人が書いたような感じのもあるけれど、字形の特徴が他と比べて著しく違ったりしない。
逆に言えば、微妙な差でも字形は全て違う。濃かったり薄かったりする文字をざっとなぞっても、他人が書き加えたような違和感を感じない。
それでいて内容は随分と年齢の幅が広い気がする。
とりあえず僕も、自分の日記に何か書かなきゃな。
「さて」
彼は読みかけの本を閉じて引き出しを開ける。
「そろそろ書こうかな」
中から取り出したのは古びたノートだ。
褪せた表紙には、黒いマジックで「未来日記」とある。
萎びた白紙をぱらぱらめくって、一番最後のページでそれをとめた。
さて、どんなくだりだったかな。
彼はしばし考え、物思いにふけるように焼けた空を見る。膝に掛かった毛布が彼をまどろみに引き戻そうとしているが、今、彼は睡眠に興味がなかった。
妻に先だたれ、一人娘は先月嫁いで、誰の帰りも待たない空間でも、時は流れている。……流れに向きはあっただろうか。
結局、未だに彼にとって時とは猥雑なものであり、ピンとくる答えは見つかっていない。若き日のくだらぬ回り道は、堂々巡りで終わりそうだ。
だから引き継いでほしい。輪の中の解れ目を見つける過程を。
しばらく窓の外を眺めていた彼は、不意に唇を綻ばせる。焼けた空に覆いかぶさる夜空。終焉を迎えるならば、その刹那夕日はもっとも輝き、流れに抵抗するだろう。
ならば私も、昔夢見た「時間への抵抗」を試みたいものだ。
「字形でばれるかな」
夕空を向いて独り言ちてみる。そして書き始めた。
【さて、ここに時間というものがある】