ORDER.03 「風」

 風があらゆる方面から僕を嬲る。今日は風が強い。吹き上げるそれに前髪が退けられ、隠していた額が露わになる。
 目元まで黒い暖簾を下げていたから、突然開けた視界に戸惑った。同時に、他人にむき出しになった僕の顔を見られるのを恐れて俯いた。容姿ではなく、表情を見られるのが怖かった。
 ああ、あいつ、振られたのか。
 そんなこと、もしも擦れ違う誰かにバレたからって、その人の脳の片隅で拡散して薄くなるとは思っている。
 けれど何故だか、バレる事が僕にとって都合の悪いこと――弱みを握られた気がしてならない。
 誰かにばらしたからと言って、それが僕の周りに知れ渡ることがないのに、何故か僕が振られた事実を知る人が増えること自体を厭った。
 いつもそうだった。どうでもいいことに怯える、一種の妄想癖みたいなものが僕にはあった。
 さっき僕が言った、周りに知れ渡ることがない、という言い方は、厳密には正確でない。あたかも確信的にいっているが、それは自分の理性の中で捏ね繰り回した、言い聞かせるための理屈に過ぎない。
 本当はいつも、この中に知り合いが紛れている、あるいはまったく知らない人が僕の噂をし、身近な人の耳まで届く、という何の根拠もない、漠然とした不安に取り付かれていた。僕の失敗を知る人が増えるたび、僕の評判も下がるのだろうと勝手に錯覚してしまう。自分でも馬鹿けていると思っている。
 何故そんなに評判を気にするのだろう。
 僕を閉鎖的な人間にさせるのは、この妄想に尽きるとさえ言える。人前で歩くのが怖くてならないのだ。失敗を犯すたび、あるいは失敗することを考えるたび、僕には人の視線が刃物のように見える。今に疵物にしてやろうと、僕の前で刃の切っ先をちらつかせている――。
 なんてくだらないのだろう。自分の意思と失敗への恐怖に板ばさみにされた結果、却って中途半端な結果になるなんて、今まで嫌と言うほど経験してきた。僕の挙動不審はこいつの所為だとさえ考えた。この恐怖は突破できるものであり、突破したほうが結果はよくなるという仮説まで僕の中ではできている。
 けれど実行したことなんてこれっぽっちもない。実行しようとすると、動悸が激しくなって、呼吸が浅くなって、世界が僕を残して真っ白になるのだ。現実逃避に対する言い訳だって思うだろう。僕もそう思う。
 無意識に口から溜め息がこぼれ出た。
 階段を上りながら、自分が溜め息をしたことに気がついて、何となく肩の重りが増えた気がした。
 僕が好意を寄せていた彼女も、溜め息が嫌いだっただろう。
 たん、たん、たん、とリズミカルに、乾いた音を立てて段差を上る。
 溌剌とした性格だった彼女が僕のことをどう思っているかなんて、あらかた予想がついた。だから僕は彼女を、というか自分を傷つけたくなくて、ずっとこの気持ちを隠していた。
 彼女と親しい男子に言われた。机に入れっぱなしだった、回収した体育カードを取りにいった放課後のことだった。部活に出ずに何やら教室で投げたり打ったりしている彼らにばれない様に、その場を出ようとしたとき、
「お前、Yが好きなんだろう?」
 背後から大声で言われた。無視すればよかったのに、僕の足は止まった。
「Yがさあ、言ってたんだよ。あたし、ああいうキョドったネクラが大っ嫌いなの」
「大っ嫌いなのー!」
 馬鹿みたいに甲高い声にあわせて、仲間が馬鹿みたいに復唱した。なぜこんな奴らがあの子と仲がいいのだろう。彼女は自分のいないところで彼らがどうなっているのか知らないのだろうか。彼らこそ彼女を慕っていると、気づいていないのだろうか。
 僕は何も言い返さずに教室を出た。
「付きまとってんじゃねーよ」
「盗み見てんなよ、キモいんだよぉ」
 廊下をただひたすら歩いた。走らなかった。
「マジ、ウケるしアイツ」
「顔真っ青だったし」
 ゲラゲラ笑う声に混じって、廊下に余計なくらいデカくて耳障りな声が響く。
 僕は階段を下る。笑い声が聞こえる。僕は下る。決して駆け下りたりしない。階段を下りきるまでは、はやる気持ちを抑えて極力普通に進もうとした。
 たんたんたんたんたんたんたんたん…………。

 上りきったところで、僕はいつもは閉まっているモスグリーンの扉から風が吹いているのに気がついた。僅かに隙間が開いている。恐る恐る開いてみると、扉越しに前に誰か見えた。そいつはフェンスにもたれて煙草をふかしている。視線は空を仰いでいた。髪を肩まで伸ばしていて、上下は青緑のつなぎを着ている。どう見ても大家さんではない。
 何だか後ろめたい気持ちになって顔を引っ込めようとしたとき、向こうに気づかれた。
「坊主、なにしてんだ?」
 若い男の声だった。
「坊主もくるか?」
 反応を示さないでいると、もう一度声を掛けられたので、僕は屋上に出た。何故か、そうしないと誰かに裁かれるというような恐怖を覚えたからだ。
 びゅわっ、と向かい風が吹き付ける。思わず僕は目を強く瞑った。
 黒の暖簾が目元に垂れ下がった。目を開けると、男は煙草を揉み消して、僕に手招きする。
 そのとき僕は、躊躇しなかった。彼の足元で燻る煙草の煙に乗って、彼が消えてしまう幻が見えたから。彼が僕に、呑気に助けを求めているように見えたからだった。
 近くによって、癖の強い髪が褐色がかっていたことに気がついた。無精髭も同じ色をしている。頬はこけて赤黒い。つなぎは裾に油汚れらしきものが着いているくらいで、あとは割と綺麗そうだ。
「坊主、お前振られたな」
 開口一番、そいつは初対面の人間に失恋したなと訊いてきた。僕は答えない。男は少し僕を覗き込んで、話を続けた。
「俺はな、いま死のうと思っていたんだ」
 どう反応すべきか分からなかった。ただ、あまりにさらりと口にされた言葉に、呆気なく体温を持っていかれたのは確かだった。
「俺、貧乏なんだ。親父が公務員で、大学まで行くぐらいのカネはあったんだ。だけど俺が高校を中退して、画家になって飯を食うっていった途端に家追い出されてさ。すっごいエリート意識の高い親父だったんだ。勝手に家庭の理想図描いててさ、妻は良妻賢母、息子は実直で成績優秀。たしかに母さんは賢かったな。親父が俺を見捨てたとき、長くは付き添わなかった」
 母さんは俺を見てくれていた、と呟く。まるで遊び仲間とコンビニの前でたむろしながら、世間に対する愚痴を止め処なく吐き出す会話の一部のようだった。
「世間様から見たら、きっと俺は愚かで、それに付き添った母さんも馬鹿呼ばわりされるんだろうな。だから、早く広く認めてもらおうと思った」
 ところが彼の収入では、画材を揃えるのは難しかった。
「ずっと油絵をやっていたんだ。だから油絵を売るつもりだった。ペインティングオイルの余りがあったけど、少なかったから買い足したんだ。そしたらそのあと、絵の具を買うための金のために、食費減らす毎日があってさ。やっと金が溜まったと思ったら、」
 油を壁にぶちまけた、と吐き捨てるように言った。
「アパートが狭すぎるのが悪いと思うが、とにかく散らかった部屋片付けようとして落としちまってさ、派手に汚しちまった。古いほうの油、蓋が緩んでたんだよ。こちとら油だけじゃなく、服まで駄目にされたんだぜ」
 油分がこびり付いた裾を僕に見せた。
「壁紙の張替えが敷金じゃ間に合わなくて、また振り出し。いやになって、死のうかと思った。で、同じ大家がやっているアパート見つけて、どうせならそこで死んで、迷惑掛けてやろうって思った」
 隔週で土曜日に、何故か屋上は開放されているということを彼は発見した。
「だけど今日までは土曜が雨続きで、煙草すってから死のうって思ってたからやめたんだ」
 ところが、いざ空が晴れた時、煙草を吸いながら彼は、下界への余りの距離に恐れをなした。
「俺、高所恐怖症だったのさ。なんでこんな所、とか思って止めにした」
 僕は呆れた。恐怖症だか何だか知らないが、高くなきゃ死にはしないだろう。瞼の裏に、手すりが浮かんだ。そこから遥か遠い地上が見える。垂れ下がった黒い前髪がたなびくのが見える。重力に従って引っ張られながら。ぎしりという音がして、ずるり。一気に奈落が接近してくる――。
「それにさ」
 彼は僕に取り付く幻惑をかき消した。
「死ぬのを止めてフェンスで煙草すっていて、おやって思った。俺はとんでもない勘違いしてたんじゃないかって」
 男は笑う。風が彼の正面から吹き付けていた。顔を丸裸にされて、男は愉快な表情をしている。
「俺はずっと、ここには向かい風が吹いているんだと思っていた。扉から吹くのはいつも向かい風でさ、偶然だか知らないが。だけど、こうしてそいつに背を向けて、歩く向きを変えたとき、」
 男は両手を広げていった。
 向かい風が追い風になるんだ、ってな。
「坊主、青ざめた顔すんな。こうして俺の隣で座ってりゃ、そう思うだろう? 振られただけが原因とは思わないが、そうちょくちょく高いところには来ないことだな」
 僕にはこいつの言う死の重みがどれほどなのか、よく分からない。だが彼のさりげない言葉で、僕は落ち着きをなくしてしまった。そんなに顔に表れていたか?
 そして、この人は画家として大成するだろうな、と何となく思った。茶色い額が、僕の目の前の空間に浮いている。それはぼんやりとした色を縁取っている。モザイク越しに見ているようなその絵にはしかし、確かに光≠ェあった。
 僕は腹の底から笑いたい気持ちだった。こういう、いい年して夢見がちな人間が近くにいたなんて! それは、僕には疎遠な存在のはずで、出会ってもすれ違っているか、関係を持たないようにしているはずだった。僕はそういう人間が嫌いだったからだ。なんという夢! 光! 破廉恥の塊!
 ふと、腹の底で笑い声がやんだ。胃袋の中が真空のようだ。
 煙草の煙は、当然もうなかった。
 僕は扉を見ていた目と閉じる。空気は穏やかに流れていた。突然、シャツが見えない手によって、背中にびたっと張り付いた。僕は両手を広げる。そこをすり抜け、風は僕の先を行く。
 立ち上がり、目を開ける。モスグリーンの扉が僕を誘っていた。半開きのそれの向こうに、ちらつく下りの階段がある。
 また風が吹いた。僕は一歩踏み出した。一歩、また一歩。歩く。風が吹く。何かに追われているかのように、何かに待たれているかのように、急かされた気がしながら、僕は取っ手に手を掛けた。
 背後で男の声がした。そこで僕は、たった一人、彼を忘れて進んでいたことに気がついた。
「じゃな!」
 また明日、という意味のようであり、いつかどこかで、という意味のようでもあった。僕は手を振りかざした。
「あ、言っておくけど。俺、振られてませんよ」
 思い出して、彼に背を向けたまま修正しておく。意味、なさそうだけど。
「そう思い込んでいただけですから」
 扉を閉めても、一枚板の向こう側で、空気が唸りをあげている。もしかしたら耳に張り付いているだけかもしれなかった。




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