ORDER.02 「春が近づいてきた。」
そこは綺麗なヒマワリ畑だった。わたしは、息を呑んでその黄色い群像に魅入っていた。
寂れた駅から徒歩五分。照り返しのきつい此処がどこだか、わたしは覚えていない。それどころか、何故自分がここにいるのかさえ分からなかった。
ただ黙って両親についていくと、目の前に眩い色が溢れていたのだ。
辺りはすっかり田舎の風景だ。道路のアスファルトが不似合いなくらい、周りには自然しかない。茂った緑、川のせせらぎ、太陽に焦がれる蝉の鳴き声。
その中で、一様に首をもたげるそれぞれの姿はどこか気だるそうで、なのに華やかだった。
「こんなに沢山のヒマワリ、あたし始めてみたわ」
麦藁帽子を両手で押さえて、今年小学生になったばかりの妹が言った。彼女の言うヒマワリといったら、せいぜいわたしが理科の観察で育てたやつか、幼稚園の前に咲いていた程度のものだろう。
わたしは、ヒマワリ畑に来たのはこれが初めてというわけではなかった。しかし妹が感じた感動と、わたしのそれの大きさには、そんなに差がないとわたしは思った。
『沢山のヒマワリ』ももちろんそうだが、わたしの場合、その色の眩さが何より強く目に焼きついた。
深緑(しんりょく)の海に浮かぶ、目の覚めるような山吹の色。太陽の日差しを浴びて、そのコントラストはよりくっきりと色鮮やかになっていた。
日によく焼けた父さんは、両手を腰にあてがって得意げにその景色を眺めていた。
「すごいだろう? こんな光景、めった見られないからな」
まったくだ、とわたしは思った。水を落とせば弾きそうなその色は、太陽に愛でらた夏野菜を彷彿とさせた。いったい誰が育てているのだろう。
考えてみて、それが結構重要な疑問であることに気づいた。そういえば、ここには人気がまったくない。いや、人気どころか、人が住んでいる様子さえないのだ。
道路には車が通らない。家の一軒だって見つかりはしない。電車を降りた駅だって、寂しいというには度が過ぎるくらい、誰もいなかったではないか。切符を渡した駅長さんを最後に、他人を見た記憶がない。
「ねえ、父さん。どうしてここには誰もいないのかしら?」
何気なく訊いたつもりだったのに、父は目を丸くしてこちらを見た。大きな目がより大きくなって、ちょっと怖い。
「なにって……、そりゃあ当たり前だろう。もうすぐ夏になるのだから、みんな北陸地方に越しちまったのさ」
今度はわたしが目を大きくする番だった。今、夏になると言ったのか?
「何言っているの、ヒマワリは夏の花じゃない」
途端に父の表情が険しくなった。
わたしは狼狽した。父のこの表情は、好奇心から質問をしたときにしばしば見るものだった。
「俺の子はこんなことも知らないのか」という台詞が次に出てくる前触れだった。けれど、この質問にこのリアクションはまったく適切じゃない。わたしをからかっているのか? それとも暑さでどうかしたのだろうか。
だが、父はさらに奇妙な行動を取った。口から言葉を発することさえできないのだ。ただどこかに向かってパクパクと唇を動かすだけで、こちらが不安を覚えるほどに、必死になって言葉をつむごうとしていた。
ようやく彼が出した答えは、しかしこちらから判断してまともなモノではなかった。
「夏に花が咲くものか。親をからかうのもいい加減にしなさい」
懸命に己の感情を抑制してそういったのだ。
わたしは、いよいよ不安になった。さらに母さんと妹が、訝しげにこちらを見ているのに気づき、それはますます大きくなっていく。ああ、みんな正気なの?
「父さん、娘の冗談に本気で答えるなんて、相変わらず大人気ないですね」
「おとなげないー」
母さんと妹の指摘に、父がムキになって何か言っている。
わたしは何がなんだか分からぬまま、目の前に広がる、無数の太陽の模造品を眺めていた。これが夏以外の光景? そんな馬鹿な。
触れようと一歩前に踏み出て、わたしは足元の感触に違和感を覚えた。
コンクリートとは違うのだけれど、それの延長のような、似たものを踏んだ感覚だった。
何気なく視線をそちらにやって、わたしはそれが土であることを知った。表面が乾燥して、ところどころにヒビが入っている。
ヒマワリはどれも本物だった。それらしい柔らかさがあって、それが人為的につくられたものではないと確認した。
「ちょっとまって。何でこんな環境でヒマワリが育つの?」
呟くと、よくぞ訊いてくれました、と言い合いを中断して父が笑った。
「父さんの兄弟、お前の叔父さんが品種改良したからさ。春の下旬まで咲くようにして成功したもので、こうしてここにヒマワリ畑を作ったらしい。家庭用だと栽培が難しいから、これからこの畑でのデータをベースにして、改良を加え続けるらしいよ」
「何です父さん、こんなときにまであの人の自慢話を持ち込もうと、わざわざ連れてきたのですか」
どうりで説明が曖昧だったと、母さんが眉根を寄せた。母さんは叔父さんがあまり好きではないのだ。――しかし、問題はそこではないはずだ。
「どっちでもいいじゃない、冬以外にお花が咲くのだもの。ねえ、いつか夏にもお花が見られるようになるかしら?」
妹の無邪気な質問に、もちろんと言おうとした父さんを母さんが制した。軽くため息をついて、妹の目線で話す。
「ねえ、お姉ちゃんがいったのは冗談なのよ。夏はうんと暑くなるから、お花さんたちは咲けないの」
わたしは自分の頭を殴った。力いっぱい、二、三回殴った。けれど夢の終わりように朝を迎えるわけでもなく、暑さで参った頭がさえて、幻聴が聞こえなくなるわけでもなかった。
「暑いけど、春も暑いよ?」
「ええ、でもね、夏はもっと暑いのよ。虫さんが鳴いたことがある? 春にはセミが鳴いているけど、夏にはいないでしょう。そうして木の葉っぱは全部落ちて、川の水はぬるくなってしまうから、お花は咲かないのよ。秋になって大雨が降って、冬の暖かい時期にしか、生き物や植物さんは見られなかったの」
「母さん、そんな夢のないことを」
「本当のことを言って何が悪いの。夏に花を見に行くために、外へ出るなんてバカな事をうちの娘がしたらどうするのです。第一、四季のこともろくに分からない子供なんて、恥ずかしくて世間に出せませんよ」
母さんはぴしゃりと跳ね返し、妹に向き直った。
「だから、春にお花が見られるだけでもすごいって思わなくちゃね」
「うん、すごい、すごーい!」
はしゃぐ妹を尻目に、わたしは呆然と周りを見回していた。空っぽの頭に、再生テープのように一連の会話が流されていく。
「夏に本当に花が咲かないのかしら? 私も見に行きたいわ」
ポツリとつぶやくと、母は嘲笑的な笑い方をした。
「あらあら、それで妹がついていったらどうするの? 脱水症状なんて、くだらない原因で死なないで頂戴よ」
縁起でもないことをサラリと言った。母さんは私が言ったことを、冗談としか受け取っていないのだ。わたしはもはや、何も訊く気になれなかった。
ヒビの入った地面を強く踏み締めてみると、土とは思えない異常な硬質感があった。ヒマワリを改めて手に取ったわたしは、その先端が萎びて死んでいるのに気がついた。
西暦2106年。
今日は3月25日――春はまだ来たばかりである。