ORDER.01 「始まりの……。」
あたりは真空に包まれたかのような静寂を放っていた。
あまりに空気が張り詰めていて、窓から入る夜気が、キンキンと微弱な音を立てていると感じたくらいだ。
言い知れぬ威圧が夜気と共に入るたび、私は手が震えそうなのを必死でこらえて文を書き続けなければならなかった。
ペン先が、破いたノートの紙を引っかく音さえも怖くてならない。何もかもが輪郭を失ってしまうほどの深い闇に抗うような、蝋燭のほの明るい光も、むしろ心細さを掻き立てる役割を担っていた。
今したためているこの手紙こそが、ここに私が存在していた最後の証となるのに、私はどうしても早くこの手紙を書き終えたかった。そのくせ、汗ばんだ手は思うように動かない。焦れて、殴り書きにしたい気持ちがこみ上げてきたが、堪えた。私は言いつけどおり、“彼”に教えられた内容を丁寧に書き記していった。時折ペンを休めては、外に音の気配がないかと耳をそば立てた。
ようやく書き終えた数枚の手紙に、書き忘れはないか確かめていると、ふと外の景色の変化に気づいた。
向かいの家の屋根が、朧気にだが確認できるようになっていた。街頭もないこの町で、月の光さえ覆い隠してしまった雲の色が、少し明るくなっていた。
いけない! 時間が来てしまう!
私は急いで最後の一文を確認して、荷物を背負って外へ出た。
私の住む村は、太い一本道の脇に、家やら畑やらを並べたようなつくりだった。だから、暗くても道に迷うことはない。
ただ、見通しが利くために、誰かを見かけたらこちらも相手に見られたことになる。私であるかまでは向こうに特定できないだろうが、会うのは絶対に避けたかった。私の置手紙を誰かが報告したときに、村を出て行く人影を見たと、向こうに証言されてしまうと都合が悪いからだ。私が自ら、意図的に村を抜け出したのを住人に知られては、“彼”と私のシナリオは実現できなくなってしまう。
私は音のする靴は家に置いてきていた。裸足で走りながら、人の気配がしないか神経を尖らせていた。
突然、何かに足をすくわれて派手にこけてしまった。
イタイ、と口にしてから、急いで立ち上がって辺りを見回す。幸い、誰も起きていないようだ。
今日の状況を差し引いても、生来の神経質さには我ながら苦笑するしかない。そんなんで人が起きるものか。
私の足元を奪ったのは空き瓶だった。飲み口のあたりを鼻まで近づけると、中から甘ったるい酒の香りがした。
そうだ、昨日は秋の懇穫祭(こんかくさい)だったのだと思い出す。
毎年この村では、秋の始めに、貯蔵庫に蓄えた米で甘口の酒を造って振る舞い、秋の豊作を願うという習慣がついていた。
私は一ヶ月前に二十歳になって、昨日初めて酒を飲むことが許されたのだけれど、今日のために断っていた。酔いと熱気の冷めない夜明け前に、子供を除いてしらふで村を歩けるのは、おそらく私だけだろう。
瓶の中をのぞくと、小さなガラスの玉が入っていた。軽く振ってみると、からからと小さな音を立てる。
あわててそれを地面において、また苦笑した。人の気配はない。
あの玉は、豊作の女神のブレスレットに使われた玉を模ったのだと、いつかの父の言葉が頭をよぎった。そして、初めて懇穫祭の酒を口にした成人達は、瓶を割って女神からその玉を授かり、豊作の御守りとして身に着けるのだと。
瓶は、私が行こうとする道のところどころに転がっていた。家を出たときにはなかったアルコールのにおいが、この辺りの空気には充ちていた。
ああ、私はもうこの酒の味を知ることができない。知らずに終わるのだ。
一瞬そう思ったが、再度歩き始めてから考え直してみると、切なさが増していった。
せめて女神の玉だけでも授かろうと、割られていない空き瓶をひとつ拾った。
夜明けの鐘がなる前に、私は“彼”と落ち合わなければならない。緩めていた足取りに鞭を入れ、再び私は走り出した。
両手できつく握り締めた瓶は、口からガラスのぶつかる小さな音と、甘い酒の香りを漂わせる。それらは私が、この時間、この寂れた夜明け前を走っていたことを、何らかの形にして残そうとしているかのようだった。
待ち合わせをしたのは、村を出て間もないところにある、小高い丘の頂だった。目印の大木の下には、誰もいない。
辺りを見回していると、背後でカーン、カーン……と鐘を打つ音が聞こえた。雲の間から切れ切れに、青い光が注がれる。
大分明るくなった緑の中で、それでも“彼”を見つけることができない。まだ来ていないのだろうか。五十回鳴ると耳にした、夜明けの鐘を聞きながら、私は首をかしげた。
そのとき、俄かに後ろから右の手首をつかまれ、強く引っ張られた。
「きゃ!?」
引き寄せられた私の体は、そのままその腕に抱きとめられた。と、間髪いれずに何かを喉元に突きつけられる。薄い光を浴びて、それは鈍い光沢を放った。身の危険を感じた私は、咄嗟に両手を上げて、何かの間違いですと、なんとか言った。
刃物を突きつけた誰かは、私の声を聞くと、何のためらいもなく私を解放した。突然手を離されて、腰が抜けた私はすとんと垂直に落ちて座った。
「よし、間違いなく君だね」
聞き覚えのある声に、私の腰を抜かせた犯人が“彼”だったと悟った。
「随分と物騒な挨拶をするのね」
腰に力が入らないわよ、と訴えた。
「よそ者に入られるのが嫌だったから確かめただけなのに、この有様か。そんなんで本当にこの村を出て行くつもりなのか? 肝の据わっていない小さい雛は、足手まといになるからごめんだ。やめるなら今だぞ」
対する“彼”は悪びれた様子がまったくない。初めて出会ったときから冷淡な印象を受けていたが、ここまで薄情な奴だったとは。しかも人が言い返せないような、痛いところをついてくるところも変わっていなかった。
「行くわよ」と私は言った。少し力が入った言い方になってしまったから、所詮弱虫の強がりだとしか見られなかっただろう。
“彼”は何も答えなかった。かといって表情に出すようなこともしないで、青く染まっていく私の故郷を、じっと眺めているだけだった。
「今日から君も、ボクらの同胞だ」
“彼”は言った。
「もうこの村の住人ではない。だからといって、どこかの町や集落に入れてもらうわけじゃない。ボクらと同じ、“属さない民族”だ」
私は、“彼”の顔を見て驚いた。“彼”の表情はいつもと変わっていなかった。ただ、どこかさびしそうに見えたのだ。薄明かりが、“彼”の彫りの深い、整った顔に僅かな影を作ったせいでそう見えたのかもしれない。
「懐かしいな」
村を見つめたまま、“彼”はつぶやいた。
「五年ぶりに故郷を見たよ」
私も隣にたって、その景色を眺める。雲が少なくなって、目の前には青に近い白と、茶色や緑の色が上下に二分された、見慣れない風景が広がっていた。
「この丘から私の村を見たのって初めて……。こんなに私の村が美しかったなんて」
思わず零れたのは言葉だけではなかった。辺りは清清しい光に満たされつつあるのに、私の頬には雨が降っていた。
日の出の空の下、すでに道を行き交う人々が現れている。隣町への買出しや家のことなど、青年が祭りの翌日に活動をするのはおきまりだった。
何度も鳴っていた夜明けの鐘は、朝を迎えて最後の一打ちを鳴らす。その余韻が消え去ったとき、横にいた“彼”が身動きする気配がした。
視線を向けると、彼は、私が引っ張られたときに手放した瓶をおもむろに手にしていた。そして瓶を軽く振って一人頷くと、傍にあった大木に叩きつけて瓶を割った。
あっけなく砕け散ったガラスの破片の中から、一際目立った光を放つものを拾い上げ、彼はそれを私の手に握らせた。何か言っている。
「……こ、……めん」
「え?」
「……懇穫祭、出してやれなくてごめん」
軽く頭を下げた“彼”の行動に面食らい、私は何をすべきか迷ったが、分からずただ首を左右に振ることしかできなかった。
「女神の玉がもらえたし、いいよ。それに私は、成人までこの村にいれたんだし。あんたに比べればマシよ」
下げた頭をなかなか戻さない“彼”に、何とか頭を上げてもらおうと、やっとのことでそう言い添えた。ああ、そういえば彼は、自分の兄が持つ豊作の象りを、どこか憧れに似た目で見ていたっけ。
黙って“彼”は私を見る。すでに表情は引き締まっていた。
「そうかい。じゃあ今からどうするかだけど、ボクたちは、これからこの丘を越えて、村とは逆の方角にまっすぐ進む。まっすぐだ。目的地は近くなってから言うよ」
まるでさっき私に詫びた男のセリフとは思えないほど、淡々という“彼”の注意は、すっかり別のことにいっている様だ。初対面ならその図々しさに、あっけらかんとしても無理がないくらい、“彼”は平然としていた。
昔から“彼”はそうだった。何でも黙って一人で決めて、片付いたことはもう気にかけたりもしなかった。そんな感じで五年前にも、何の相談もしないで村を出て行ってしまった。
そんな“彼”に、それでも私はついて行くことを決めた。……これが最善の策かなんて、正直今でも分からないけれど。
つま先を太陽のほうに向け、もう一度私は村を望む。
ごめんなさい、私の故郷。美しい、太陽を望む村よ。私にはこうするしかなかったの。他にどうすればいいかなんて、分からなかったわ。迷っている時間さえ、私にはないんです。どうか許して。
「女神の後光として崇められし太陽よ、われらが村を、仲間をお守りください」
そう言って、私はガラス玉を陽光にかざした。そのとき私は、“彼”に残酷なほど冷たい、そしてどこか哀れんだ目線で見られていたことに気づかなかった。
「懇穫の酒のアルコールが回ってきそうだ。そろそろ行くぞ」
はき捨てるような言い方をして、幼馴染は踵を返した。生まれ育った村を目に焼きつけ、私は最後の別れを告げた。
もちろん、酒のアルコールで私たちが酔うはずがなかった。“彼”が言うのは瓶に残った微量のアルコールだ。けれど私は、あえて何も尋ねなかった。
もう後戻りはできない。これは、始まりのための別れなの。もう、私には先しかないのよ。
そう自分を叱咤して、竦んでしまいそうな足を無理やり前に動かした。
向こうで“彼”が呼んでいる。背中を向けて立ち止まっていた“彼”はしかし、私を、村を見ようと振り返ることはなかった。