絞った雑巾を入れたバケツを揺らして、紀久(のりひさ)が戻ってきた。机にのって、足をぶらぶらさせる事に飽きてしまった燐斗(りんと)は、黒板でチョークを走らせている。
 彼がチョークを走らせるのは、すなわち緑のボードを塗りつぶすことを使命としている。絵とか言葉とか、そんな目的は無い。ただひたすらに黒板を汚す。今朝、実験でやってみた同じ試みが、狙いどおり授業の開始を遅らせたことに味をしめたのだろう。
 しかし窓拭き係で残っていることが分かっている紀久も、きっと、とばっちりを食らうのだ。 昨日は掃除の日ではなかったので居残りも無く、今朝は無事だったが、明日は分からない。
 紀久が戻ってきたことに気づいた燐斗は、チョークを置いた。蛍光色の赤だ。欠けたオレンジや茶色や紫も、全部、筆圧が強くてがさつな燐斗が使った。
「跡が残らなきゃ意味が無いんだ。消すときに力が要るから」
 と、ありったけ塗った上に飛び切りの力を込めて、不可解な記号を残すのが燐斗流だ。
真面目な紀久は、そんな無駄なことに精進する燐斗をかわいそうだと思ったが、その一方で楽しそうだとも思った。チョークを走らせる彼は真剣なのだ。飽き性ですぐ放り投げてしまう彼が、こんな単調な仕事を進んでしているのだ。きっと彼は、こういうのが単純に好きなのだ。
入学から二年ぽっちの付き合いだし、同じクラスは今年が初めてだが、それくらいは分かった。紀久は幼いながらに、周りより繊細で気が付きやすいきらいがあった。
「ねえ、消して帰らないの」
 黒板を指して紀久が言う。自分を気遣ってくれているのだと勘違いした燐斗は、当然消さないといった。
「そんな青い顔するなよ。ばれないって!」
 無論、燐斗は紀久を巻き添えにするつもりなどないが、紀久にはそこまで深い理解はできない。リン君は僕のせいにするつもりなんだ。自分は好きなだけやっておいて、僕のせいにするんだ。みんなリン君の方が好きだから、絶対、僕のせいにされる。
「リン君、先に行っててくれない。僕、先生にクラス日記出さないといけないから」
「なんだ、日記くらい。俺も付いていくよ」
 燐斗は紀久の思惑に、気づいたのかどうかは分からないが、引っかからなかった。
 紀久はバケツを置いて窓のほうを見る。焼けたオレンジの上に漆黒が溶けている。枝の枯葉が大分落ちたのに、まだ紀久は「新しい」クラスに打ち解けられない。季節の移ろいは彼が感じるよりずっと早い。四季と同じに、皆彼を置いて行き急ぐ。
 ガラス一枚隔てていても、外から冷たく張った空気が伝わってくる。夜気が、教室まで支配しようと手を伸ばしている。その指先に触れて、紀久は小さい両手をさすった。
 水道の水は理不尽だ。夏はぬるくて、冬は凍るように冷たい。需要に沿わない、という表現は知らなかったから、不便だ、と広い範囲の言葉で補う。
「おい、手ぇ真っ赤じゃないか」
 夏休み明けほどではないが未だに黒い、燐斗の手が紀久の手に触れた途端、引っ込んだ。
「冷たっ」
 お前真面目なンだよ、雑巾なんて乾拭きか適当にやるかでいいンだよ、と何故かお説教をくらう。
「大体、何で掃除の係りを決めるとき、じゃんけんに参加しないんだ? お前、いっつもそれで損してるじゃないか」
 最後の質問に紀久は動揺した。彼にそんなことを突つかれるとは思っていなかった。少し息を詰めて押し黙る。勝手に視線が下がってしまう。
「最初はグー、」
 出し抜けに燐斗が拳を突き出した。反射的に紀久は後退りする。
「ほら、出さなきゃ負けだよ最初はグー、」
 紀久は黙って燐斗の拳を見ている。ちょうど紀久の腹くらいの位置だ。
 燐斗は紀久がグーを出すのを待っている。いつも紀久が出さない、最初のグーを。
子供の世界では、却って相手に押し付ける手段を選ばないことが多い。燐斗は別の掃除班だったが、じゃんけんで決める窓拭き係が、何故いつも紀久だったのかに気が付いていた。
「おい、ノリピーがグーを出してねーぞ!」
 燐斗はクラスのお調子者の声まねをする。いつも彼がつるんでいる奴だから、そっくりだ。吹き出したい気持ちと黙り込みたい気持ちがぶつかって、紀久は曖昧に笑った。
「またかよノリピ〜。じゃ、お前窓拭きね」
 今度は別の男子の真似だ。燐斗はバケツを持って紀久に突き出した。紀久は受け取らない。口角が強張った紀久に、燐斗が逆に狼狽した。俯き加減になって、バケツを右脇でぶんぶん回しだす。そこに溜まった僅かな水滴が飛び散って、紀久は少し嫌な顔をした。
 バケツの回転がだんだん減速していき、やがて止まると、
「最初はグー、じゃんけん、」
 またしても唐突に、燐斗がグーを出した。
 ぽん、ではじめて紀久はチョキを出した。燐斗はパーだ。
「勝てんじゃん! 何、エンリョ、だっけ? それ?」
紀久は答えない。
頷けばいい、今度からグーを出せばいい。けれど、それができなかった。分かっているのだ、そこで約束しても、どうせ最初に負けてバケツを握る日々は終わらないと。
燐斗はバケツを床に戻した。
「へっ、馬鹿馬鹿しい! なんで最初だけ出さないんだよ!」
 自分の秘密やポリシーは、人に理解されまいとかまわないし、寧ろ理解されたくない時もある。このくだらない理由で、彼はずっとじゃんけんを敬遠してきたのだ。そんな微妙なところに執着する燐斗は、時に重荷であり厄介だ。こんなこと、教えたところで燐斗には何もできないだろうに。
けれど、このまま張り合っても終わらない、と感覚で読んだ。張り合っても、燐斗が臍を曲げて構ってくれなくなるかもしれない、とも。
「じゃあ訊くけど、どうしてじゃんけんはグーから出さなきゃいけないんだ」
 遂に観念する。訊いても逆に「なんでそんなこと」と返されるだろうと思っていたが。案の定、燐斗はそう尋ねてきた。
決まりだからだろ、分かってるよそんなこと。そんなやり取りをする。
「グーじゃなかったらいいのか?」
 その問いには頷いた。いよいよ燐斗は怪訝な表情で紀久を見た。
 紀久はその視線から目を背けた。あまりに自分の予想通りで、却って心が落ち着かない。この後の展開も、漠然とではあるが、いいものではないと予感している。それを見る勇気が無いのだ。燐斗には紀久のその反応が気に入らなかったようだ。
「言い訳してんなよ、誰かに勝つのが嫌なんだろ?」
「だったらリンちゃんとじゃんけんした時、最初以外出すなんてしてないだろ」
 震える声で答える。言われる事は、何となく予想していたけれど、答える自分は考えていなかった。白状するつもりがなかったから。
燐斗の問いにそうだと言ってしまえば、これから負け続けても咎められないなどと、真っ白になった彼の脳みそには分かりっこない。
「日記を出してくるよ」
 それが言いたかった。「リンちゃんは先に帰ってて」と一緒に。早くこの空間から逃れたかった。一人誰もいない教室に戻って、掃除の続きをして、黒板にある濡れ衣を消してしまいたかった。
 けれど燐斗は容赦が無い。視線を逸らそうとしない。こっちを見て話せ。プレッシャーだけで、見られていると分かる。
「笑わない?」
 声はまだ震えている。これ以上話したら弱みだ、まだそんな気持ちが彼の片袖を引っ張っている。
 燐斗の方を向いたが、それより先に――彼が頷いたかを確認する前に、紀久は口を開いていた。
「怖いんだ」
 言葉が零れる。しばらく黙っていたが、静かな間があるだけだった。燐斗は笑っていない。
「これがか?」
 燐斗は握りこぶしを突き出した。ちょっと躊躇うが、紀久は首肯する。
「でも、最初だけなんだ」
 いっせいに全員の拳が突き出されるあのときが、彼には恐怖だった。それが何故なのかを、的確な表現であらわそうとしたことが無い。共有するつもりなど無かったのだから。そんな感覚、分かってもらえるだろうか? ゆっくりと言葉を紡いだ。
「皆が『最初はグー』って突き出すのが、僕には喧嘩の前みたいに見える。たまたまじゃなくて、皆がそうしようって決めてグーをだす。それが嫌だ。なんでチョキじゃないの? 皆楽しいときはチョキを出すのに。なんでパーじゃないの? 皆パーで、誰かをほめる時に拍手するのに」
 口にすると、いっそうくだらなくて恥曝しな話だと思った。喋れば喋るほど、立ち込めていた靄が消えていくようで、けれどその隙間を、熱い羞恥心が埋めていく。その奇妙な息苦しさに、紀久は顔を赤らめた。
 燐斗はしばらく黙っていたが、
「紀久、グー出せ」
 いきなり紀久の近くに歩み寄り、白い右手首を掴んだ。そのまま引き上げる。
「はやく」
 言われるがまま、紀久はそこで拳を固めた。固めたといっても、形がそれらしくなる程度に、指を折ったぐらいでしかない。
 燐斗はその弱々しいグーに、自分のグーをこつん、とぶつけた。
 唖然としている紀久の手首を開放して、燐斗は教卓においた自分のランドセルを背負う。
「嬉しかったり、楽しかったりするときに、友達とやるんだ」
 まだ燐斗が何をしたかったのか理解できていない紀久に、ぶすっと燐斗は補足した。実は兄の受け売りだが、言ってみるとみるみる耳が赤くなる。
 紀久は頭の中でゆっくりと、燐斗の言葉を反芻する。紀久は自分の両手で拳を作り、こつん、とぶつけた。
「じゃあ俺、先に帰るから。日直、頑張れ」
 二度、三度とぶつける自分の拳を、じっと見ている紀久に、燐斗はいう。
 はっとして紀久は、教室に背中を向けた燐斗に叫んだ。
「待って!」
 燐斗は面倒くさそうに振り返る。その態度に、少々紀久は怯んだ。
「あ……あの、」
「帰っていいの? 待てばいいの?」
 苛立った声に気圧されそうになるが、どっちでもいいと言いたいのだと、それに気づくことはできた。
「やっぱり、一緒に帰ろう。すぐ戻ってくるから」
 それを言えた時、彼は自然と拳を作っていた。燐斗の方へ駆け寄り、右腕を引き寄せる。燐斗はその意図を察したようだ。
 白と黒の二つのグーが、軽くぶつかった。
「ありがと」
 どの行動に対する感謝かは、燐斗の勝手な解釈でよかった。
 昨日は負ける必要が無く、今日は自分から負けたが、明日は分からない。
 紀久は日記を小脇に抱え、他人の机に陣取った燐斗を教室において、弾んだ足取りで廊下を渡る。
 黒板はそのままにしておくことにした。



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