中は閑散とした、出勤時間前のオフィスのようだった。
 人気の無さもさることながら、白で統一された広々とした空間は余計に寂れて見える。
 清潔感というよりも温かみの無い、無機質で居心地の悪いほどの白。ビルの二階分ほどの高い天井には、剥き出しの蛍光灯が並んでいる。
 エントランスの中央で、受付嬢が二人、のっぺりした台の向こうに座っている。
 誰も来ていないと言うのに私語を交えていた様子はなく、私が入ってくると真っ先に二人と目が合った。
「お名前は」
 左の女性が尋ねた。声はすっと広いホールに吸い込まれていった。
「松崎です」
 咄嗟に出した余所行きの声が、ホールに響いて何度も繰り返された。
 豊田です、豊田です、豊田です。
 駄目だとは思っていたが、やはり、ここでは自分を誤魔化すことなどできない。
 右の女性は私の名前をどこかに書き留めたり、確かめたりもせず、部屋番号の書かれた札を渡した。
「豊田さんの部屋は607号室です」
 真っ直ぐ私を見つめたまま、右の女性は言った。
 初めての面会にもかかわらず、その部屋番号は耳馴染みのあるものだった。
 エレベーターに乗り込むと、私より一回り上をいっていそうな女性が話しかけてきた。  仕事帰りだろうか、サックスカラーのシャツに黒のパンツというシンプルな服装だが、どこか華やかさが滲み出ている風貌だ。
「何階かしら」
「六階で」
 彼女は私の胸元をちらと見、番号札を確認した。
「ああ、豊田さんのところね」
「ご存知なんですか」
「ええ、隣の部屋ですもの」
 私は彼女の胸元を見たが、札はない。
「番号札は」と尋ねると、彼女は悲しげに笑った。
「面会じゃないわよ、私が入院しているの」
「どこか悪いのですか」
「いいえ、どこも。完璧なまでにね」
 六階で私たちは降りた。
「患者は腰の辺りに、部屋番号も書かれた名札をつけているわ」と彼女は教えてくれた。
 すれ違う人はほとんどが患者だった。綺麗なフォームで駆けていく少年、道に迷った看護士を導く女性、高そうなスーツを自然と着こなす老人など。
 看護士が乗った車椅子を患者が引いている様子もあった。物腰の柔らかそうな男性がしきりに話しかけているが、看護士はつんけんとした返事をしている。
「あんたはいいわね、私と違って歩けるから」
 部屋にはベッドは一つしかなかった。その子はベッドから上半身を起こして窓のほうを見ていた。
「ノンちゃん」と呼ぶと、相手は窓の向こうに注いでいた視線をこちらに向ける。
 すべらかで透き通るような白い肌。褐色がかった真っ直ぐなショートヘア。それと同じ色の瞳には、長くてやや上向きの睫が被さって、伏せると物憂げに見える。
「なんだ、ツグコ姉さんか」
 彼は一瞬意外そうな顔をしたが、すぐにいつもの彫像のヨシノブに戻った。
「なんだはないでしょ、せっかく来たのに」
 私はベッドの傍にあるパイプ椅子に腰掛ける。椅子は小さくミシリと言った。
「いや、久々にノンちゃんって呼ばれて違和感が」
「じゃあヨシノブ君でいいですか? あんた見かけに似合わず武将みたいな名前を貰っちゃって」
「聞き飽きたよ、その台詞」
 面白くない顔さえ、しない。
 ヨシノブは視線を窓側に戻した。私もつられて外を見る。この階の窓からは、遠目には空しか見えない。覗き込めば夜の活気に溢れた街が見えるだろう。――活気や、策略や、嫉妬が渦巻いた街が。
 空はひっそりと闇を湛え、光と思しきものは見当たらない。薄い雲が幾重にも重なり、ゆったりと流れている。
「姉さんは会うたびに同じ事を言うね」
「あら、あんたに会うのは初めてじゃない」
「会うのは初めてだけれど、僕は姉さんに何度も会いに行った」
「そういうのは会ったって言わないのよ」
「そうかもしれない」
 ヨシノブがどんな顔をしているのを確認しようとしたが、多分表情なんて彼には無い。
「でもあなたは僕を知っている」
「ええ、ずっと前から」
 短い沈黙が訪れる。私は沈黙が嫌いだ。
 でも彼は沈黙の人だった。しゃべらない人。それが彼の役割なのだ。
 私は何気なく窓に映りこむ自分を確認した。随分疲れて見える。目の吊り気味な、普段きついと見られがちな顔は、こういう時には一層険しく目に映る。
 最近目尻に皺が寄った気がする。いや、実際、鏡に向けて笑顔を作っても、目元が老けたという印象は否めなくなった。化粧の乗りもよくない。
 いつかヨシノブからおばさんと呼ばれるのかしらん。私は白衣をきた「おばさん」を思い出した。
「そういえば今日、廊下で私に似た看護士さんを見たわ」
「ああ、管理人さんね」
 ヨシノブは看護婦さんのことを管理人さんといった。奇妙なことに、それはエレベーターで出会った女性も同じだった。
 車椅子に乗っていた看護士に「こんばんは、管理人さん」と話しかけていたのだ。
「あれ、管理人さんって言うの?」
「僕らはそう呼んでいる。あの人たちは自分を看護士だって言うけれど」
 どこか看護士を否定しているとも取れる台詞だが、その口調からも表情からも、どう思っているのかは読み取れなかった。
 それでも私はその横顔を見つめてしまう。表情を探ろうなんてしているわけではない。
 ただ無表情で、ただ横を向いているだけなのに、彼から目が離せないのは、彼が私の弟ではないからだ。
「でもやっぱり、あんたはいいわね」
「何それ、また唐突に」
 照れるでも不快に思うでもなく、彼は向こうを向いたまま、関心がなさそうに言った。
「褒めてんのよ? 私もあんたの母さんの娘だったらよかったわ」
 美しいのに、何度も見ているのに、彼は私の弟ではない。
 血が繋がっていれば、彼のことなんてなんとも思わないかもしれない。
 私に彼と同じ血が流れていたなら、きっと彼に近くなれたのに。
 彼ではなく、私に見とれてみたい。
「知っているでしょう? 僕には母なんていない」
 初めてヨシノブが笑った。綺麗過ぎる、どこか作り物めいた笑い。
「ええ、初めから」
 ヨシノブは無表情でこちらを見ている。何も無いその視線が痛かった。
「なに真に受けてるの、冗談よ!」
 虚しいと知りつつも景気よい風を装って言う。
「……でもやっぱり、あんたはいいわよ」
 言うつもりはなかったのに、また同じことを言ってしまった。
「本気で言ってるの?」
 真っ直ぐな視線を向けたまま、ヨシノブは静かに訊ねた。
 本当は否定したかった。あんたも人間、私と同じ。なんとも思わないと。
 けれどそれはどんな明け透けな嘘よりも明白な偽りだった。それはヨシノブも知っている。
 彼の美醜だとか、私の感情とかが影響する以前に、彼が私よりずっと上であるということは、彼が生まれたそのときから決まっているのだ。
 偏見でも卑屈でもなく、これは絶対の事実なのだ。
 私がどこまで以前の私を超えようとも、彼を超えることはできない。絶対に。
 私に彼を否定することは、私のプライドにかけてできなかった。
「そうよ。私はあんたみたいに生まれたかった」
 私はさっき冗談だと訂正した自分の気持ちを、再び覆した。
 その途端、顔以外動かさなかったヨシノブが、初めてその両手を使った。左手で私の手をとり、右手をその上に添えた。
「本気で言ってるの?」
 同じ事をヨシノブが訊いた。
「僕に母はいない」
 右手が私の手を軽く握る。
「僕は美化されている」  爪を立てた。
「僕は脆い」
 爪が手の甲に食い込んでいく。
「僕の代わりのヨシノブが、この病室に来るだろう」
 その力は一向に緩まる気配が無い。
「ちょっと、痛いわよ」
 私は振りほどこうとしたが、予想以上にヨシノブの握る力が強かった。
「僕は空虚だ」
 空いた手で彼の右手首をつかみ、引き剥がそうとしても、爪が加える力はどんどん強くなる。
「僕は、いない」
「痛っ!」
 ようやくヨシノブが開放した私の手の甲には、四箇所の、小さな三日月形の血溜まりができていた。
「もう時間だ。帰りなよ」
 呆然と手の傷を眺めている私に、初めて、ヨシノブからの声が掛かった。
 そうする他には無かった。私は彼に言ってはならないことを言ったのだ。
 ここに居ようとした所で、この後看護士さんがやってきて、私を追い出すに違いない。
 彼の看護士さん――。
「ねえ」
 席を立ちながら、私は彼に訊ねた。
「あなたの管理人さんって、私にそっくりの人?」
 ヨシノブは数秒黙って私を見て、最後に中身の無い笑みを返した。
 病室を出た後に、私は扉の右側を見る。「603」とある隣に視線を滑らせた。
 「豊田ヨシノブ」とあったはずのその場所には、ただ空白があるだけだった。



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